Just Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。

中国帰国者さんを知っているか

中国帰国者定着促進センターさん資料のメモ

https://www.kikokusha-center.or.jp/bunka/kaigoscrt/201.2zanryumojij.pdf

 Q2 中国残留邦人はなぜ日本に帰れなかったので すか?
 A2
 (1)終戦当時、満州国(現在の中国の東北地方) には、軍人の他に 155 万人の日本人が住んでいまし た。

この中の 27 万人は開拓団として農業に従事して いました。

満州国の日本軍は、戦況のひどかった南方に、経験 豊かな部隊を転属させたので、昭和 20 年にはその補 充のため、青壮年男子の大多数は軍隊に招集され、 残った家庭は老人婦女子が主体となっていました。

 

(2)昭和 20 年 8 月 9 日、ソ連軍の北の国境からの突 然の対日参戦で大混乱となり、日本人は安全な地を 目指して避難しましたが、鉄道沿線から遠く離れた 地にいた人達、主として開拓団の老人婦女子たちは、 着の身着のまま、徒歩で、何日も何日も銃撃に逃げ まどいました。中には集団自決する人たちもあり、 逃避行中には、極限の疲労と飢餓に苦しみ、伝染病 も発生して、死亡者が続出するという悲惨な状況に 遭いました。


 (3)このような混乱状態の中で、肉親と生別、死別し た幼い子供で、中国人養父母に育てられた人たちを 中国残留孤児と呼び、混乱が沈静化しても、家も職 もなくして衣食にもこと欠き、中国の厳しい冬を前 にやむなく中国人家庭に入った婦人たちを残留婦人 等と呼び、これらの人々を「中国残留邦人」と総称 しています。 


Q3 残留邦人は中国だけですか?中国残留邦人 の帰国はいつからはじまったのですか? 
A3 昭和 20 年 8 月の終戦後、海外にいた 600 万 人余の日本人(軍人、軍属、民間人)は、一斉に 日本へ引揚げることになり、昭和 25 年頃までに 概ね終わりました。

満州を除く中国本土からは、 20 年 11 月から 21 年末までに約 49 万人が引揚げ、 概ね終わりました。

満州からの引揚は昭和 21 年 5 月から始まり 続々と帰国したも のの、昭和 23 年 8 月には中国の内戦 が激しくなり中断 しました(前期集 団引揚)。

昭和 24 年 10 月 に中華人民共和国 が成立し、日本と は国交のない国と なったため引揚中 断状態は続きまし た。


 昭和 28 年 3 月か ら、民間団体を窓 口に引揚が再開され(後期集団引揚)33 年 7 月ま でに 3 万 3 千人が帰国しました

が、中国人家庭で 育てられていた孤児たちや中国人との家庭を築 いていた婦人たちが残されました。

後期集団引揚のあと、日本赤十字社を通じて帰 国旅費を送り個別に引揚げる方法がとられてき ましたが、
昭和 47 年の日中国交正常化と翌年の 日中航空協定で、個別に大量の帰国が始まりまし た。

成人した孤児から自分の身元を調査して帰国 させて欲しいとの要望も届けられ、国はこの調査 を始め、身元の判明の有無に関わらず帰国の道を 開きました。

残留婦人たちも初めは永住帰国する人と一時 帰国を望む人に分れましたが、平成に入ってから は、子供の独立や配偶者との死別を契機に日本へ 帰りたいという人が増えました。 


なお、後期集団引揚までの人を、引揚者といい、 その後の個別引揚者からは残留邦人という呼び 方が定着してきました。


また「引揚」と呼ばず「永 住帰国」との呼び方も定着してきました。 中国以外では、樺太においても、少数ですが、 中国残留婦人等と同様の方々があり、樺太残留邦 人と呼びます。 

Q4 中国残留邦人の帰国の状況はどうなってい ますか?

 

A4 残留婦人等(婦人だけでなく約1割の男性も ある)の帰国は、国交正常化直後がピークで、平 成 6~8 年に 2 回目のピークがありました。
★今日お会いした人は30年前と言われてたからここかな😌
 残留孤児の帰国は、昭和 62 年から平成 2 年に大 きなピークがありました。 これまで、約 6,700 人(家族を含めて 2 万人余) が帰国しました。まだ 200~300 人程度の方が残留 していますが、もう帰国しないという方が多いよ うです。 


Q5 では、残留邦人問題は終わったのですか?

A5 いいえ、残留邦人の困難は、むしろ帰国して から始まるのです。 終戦直後の引揚者はもちろん、後期集団帰国の 方々も中国社会で生きてきたとはいえ家族間での 生活は日本語、日本の習慣を失わずに生活してい た方がほとんどでした。しかし、残留邦人の場合 は違います。 残留婦人たちの家族は中国人です。婦人たちも 日本人であることを押さえて生きてきました。婦 人本人は日本語を話せるにしても配偶者や子供は 全く中国文化圏の人です。幼くして中国人養父母 に育てられた孤児は、血統的には日本人であると しても、本人はじめ家族ともども、言葉、習慣、 価値観などまで中国文化の中で育った人々なので す。 日本語の習得をはじめ、日本社会に適応して行 くには大変な努力が必要です。そして初めて接す る異文化社会への適応は、年齢に反比例すること が検証されており、中高年になって帰国した孤児 や配偶者は、長年いわば“外国語”である日本語 と悪戦苦闘することになり、なかには 20 年、30 年 経っても話せない、適応できないという人も見受 けられます。
 戦後から 68 年がすでに経過し、孤児世代の平均 年齢も「後期高齢者」の段階に近づきつつありま す。日本語未習熟、適応不十分のまま老後を迎え る人達には、一般の高齢者施策に加えて、新たな 施策も必要になってきています。


 Q6 では、国はどんな施策を講じているのです か?

A6 国では、孤児の身元調査をはじめ、帰国旅費 の支給、身元引受人のあっせんを行うほか、帰国 直後には定着促進センターでの日本語と生活習慣 の研修を中国残留孤児援護基金に委託して行って います。 
地域社会に定着してからは支援・交流センター での日本語教室や就業相談、交流事業、定着促進 センターによる全国規模の日本語通信教育、地域 社会における日本語学習や交流活動の支援、支援 通訳の派遣などを、地方公共団体公益法人を通 じて行っています。 さらに平成 20 年 4 月からは、帰国した方々の老 後の生活の安定を図るため、「新たな支援」として 年齢等一定の条件を満たす方に対して、満額の老 齢基礎年金を支給し、それでも十分な安定が図れ ない方には必要に応じて支援給付(生活、住宅、 医療、介護)を行っています。

 

※このリーフレットは(公財)中国残留孤児援護基金のパン フレットをもとに編集・加筆したものです。 編集:中国帰国者定着促進センター(H26 年5月版)

 

育ててくれた中国の人も、いきぬいてきたかのじょたちもすごいな

名前覚えたい。