Just Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。

映画 ガンディー 自ら紡ごう

Gandhi
1982年公開、イギリスとインドとの合作
基本知識が足りなさ過ぎて調べもの混ぜてたら超長くなった…
ぜひ見てほしいです!

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自給自足度合いを上げたい気持ちが強まった。平和はそこからくるわ。

Richard Attenborough
Mohandas Karamchand Gandhi(1869 明治2年-1948)

○Suddenly started with assassination(暗殺)scene...😭
Many Muslims with white cap
印パ別れた…失意のうちにヒンドゥー教徒過激派の青年😳に暗殺された。ガンディーは熱心なヒンドゥー教徒であったが、その真摯な姿はイスラーム教徒をも引きつけ、またカースト外の不可触民を神の子(ハリジャン)と呼んでその解放を訴えた。

 

○back in 1893, South Africa ( near 1894 日清戦争
😳"Colored attorneyありえない"って。
"どうやって一等の切符を?"
"今までずっと一等のきっぷだったよ"
(商人のカーンさんに手配してもらってたのかな?)
Piete burgなんたら…駅。
😳India is Part of English empire
🙂Ancient civilizations
😉Press for south Africa
👍Good to cause the trouble(by team mate/)
・このムスリムの商人(なんちゃらカーンさん)…は、ガンディーを南アに呼んでくれた人かな?すでに異教徒と仲良し
トランスヴァール政府(スマッツ提督)が打ち出した指紋登録法に反対。(他にクリスチャン以外は結婚できないなど)
→指紋登録証を集団で焼き払う(非暴力・不服従運動の始まり)
🙂イギリス人思想家ラスキンの著作から着想
ヒンドゥー教の『バガヴァッド=ギーター』に述べられている不殺生(アヒンサー)の精神によって根拠づけ。
・運動はサティヤーグラハと名付けられた。
・サティヤーグラハとは‘真理の把持’という意味
→非暴力、不服従服従も大事だな。それが人を動かす。by making troubles😁)

👍無抵抗なのでイギリスの法廷暴行罪受理
😉なんやかんや法律、てか裁判所大事かも。
法律も人間の作ったもので不完全だが、法律を変える一つの場所だ、裁判所。
・アンドリュー;インドから来た、牧師さん
🙂仲間が大切だな
・頬を差し出すのは勇気→human nature feel shame
😉”Ghitaもバイブルも本質は同じ”
・演説大切な…最初はガンディーも下手と言われてるシーン。
😉“小さくてもTruth is truth“
🙂“Labors is important“
Kadhiってナリワイ的かも。自分で作る。
・トイレ掃除もカーストに関わらずやる
→あなたの妻よ😡💔
→It's not me it's a principal
→あなたほど善良になれないわ
→I apologize...
・戦うの疲れないのかなぁ。。仲間かなぁ。
😌自尊心は奪われません。They will get my dead body but not get my obedience
We will not submit this law.

・シクは上の席、一階はムスリム
讃美歌唄ってる?印象的なシーン…

🤔"We are citizens of the empire"というよりどころから南アの中では戦っていた。
→インド人以外は?独立運動に向かうときはquit Indiaだけど。どこで何があって変わった?
第一次世界大戦直後まではイギリスに協力し、戦後の自治承認を期待
⇔実現せず。裏切られ気分😭
・かえって民族運動を弾圧する目的でローラット法が制定😭
→反英運動に転化

🤔もしガンディーがイギリス人だったら?
"マジョリティ"だったとしても"マイノリティ"のために戦っただろうか?probably yes ?czヒンドゥーであることはマジョリティやったしなぁ。though it's different category
🙂南アのときの顔、若いなぁ。眼力まっすぐ強い。

🌱弁護士だったペルーやブラジルの日系の人と似てる?移民すると自分が弱くなる経験。でも日系の人は日本で、私は弁護士だ!的な動きしたって聞いたことがない…

 

(映画にはなかった青年期の話)
・1888年18歳の時に弁護士目指しイギリス留学
・インドでの弁護士活動は不慣れのためかうまくいかず
・傷心。南アフリカで成功したインド人商人の依頼で1893年にアフリカに渡った。
・南アでは金、ダイヤモンドが発見され、インド人移民(印僑)が労働力(苦力)といわれ苛酷な年季労働、激しい差別

 

1915(46才) Bombay どの港だろう?→インド門のあるあたり。
(・ちなみにポルトガルは、ゴアの補助港としてこの地に要塞を築き、ポルトガル語の「良港=ボンバイア」と名付けた)
(・マニ・バワン・ガンディー博物館行きたい…)
・Steam navigation company
・クーリーの服で帰ってきた
・"国防に協力すべき"とこの時は言ってる。戦争オケなの?!
・"コングレスはガンディーを歓迎"
😶物乞いの人々を見るガンディーのかなしげな眼差し…
・イギリスは宗教で分けようとしてる
→コミュナル問題への懸念
😳"インドのこともっと知らないと"
"Indian is alien country to me "
インド、広くて見尽くせません、とガンディーでさえ言ってたんやなぁ。
そか、18-46まで南アだったんやもんね…
🙂Make India proud of herself...
🎵BGMインド的やわ…(シタール?と、太鼓.いいな弦楽器…)
😭日本もインドもやばい
😶"アメリカきたから戦争終わる(WW2)"

・政治はインドでは興味持たれなかった?
・70万の村
・でもchallenge the British as one nation
って。British decides how Indian lives..
・Home rule:自治権
👍戦うのは変革のため、罰するためやない

・第1次非暴力・不服従運動(サティヤーグラハ):ハルタール(同盟休業),断食と祈り
→追いつめられたイギリス側は暴力でおさようとしてガンディーを逮捕
アムリトサル事件😭抗議に集まった民衆にたいして軍が発砲、大量虐殺
(イギリス人さえ総督を避難していた)
全インドの教訓のため…
タイヤー総督、市民を殺した。1600発以上1500人以上。。
→暴力抑えられなかった😭「ヒマラヤの誤算」→一時運動を停止

(そういえばアムリトサル行ったときにその虐殺の庭をみた。。)
・そのころイスラーム教徒がヒラーファト運動(オスマン帝国のカリフ制を擁護する運動)を開始、反英姿勢→それを支持して、宗教の違いを超えたインドの民衆運動を成立させる好機と考えた
→同年末には国民会議派を指導して「非協力運動」

🤔なんで帰国後丸刈りに?指導者ぽいから?チョロンと髪が残ってるシーンも。


❤️kadhi(自ら紡いで手織りのもの), スワデシ(国産品)
"インディゴだけ作れと言われたけど,今はイギリスから買う"
"前は作物で地主(イギリス人)に払ったけど今はキャッシュといわれる。キャッシュはない"
🌱ナリワイ的だ!アナンさんもそうなんよねー
🌱私の服や日常のkadhi度合いあげよう…!
"英国の服を買って我々は貧しくなる"
❤️Wear domestic clothings with dignity
❤️Ashram...共同農場!と訳されてる
・詩人タゴールは非協力運動の行き過ぎを危惧してガンディーを批判
→「タゴールも紡ぐがいい。他の人々と同じように!」と反論
→民衆も興奮、1922年、チョウリ=チョウラ村で農民暴動、警察官を殺害
→非暴力の原則が守られなかった💔
→ガンディーは一方的に運動の停止宣言😳→驚😳、悩😞ガンディーの指導力低下

・トルコでカリフが退位→ヒラーファト運動も目的喪失
→再びヒンドゥームスリムの対立(コミュナリズム問題)が深刻に😭

 

●1927年、イギリスはインド統治法改正のための憲政改革調査委員会(サイモン委員会)を発足
インド人ゼロ
→再び反英気運
インド国民会議派でも対抗して独自の憲法草案の作成
国民会議派(コングレス)内部対立
🌱段階的な自治の実現を目指す穏健派
💨即時に完全な自治の実現を要求する急進派(ネルーなど)(ネルーはパンディットって呼ばれてた)
・統一政府を志向する国民会議派⇔分離選挙に固執するムスリム

(内部の細かな?と言えないかもだけど分離っていろんなとこで起こるやね。。)
→ガンディーの指導力期待
→1929年末ラホール、国民会議派大会
ネルーら急進派の意見を実現
・「完全独立」(プールナ=スワラージ)」
☁背景;イギリスでマクドナルド労働党内閣が成立
&世界恐慌→農村貧困深刻

 

●1930年3月から第2次非暴力・不服従運動
😳塩の製造はイギリス独占やった。
塩という生活必需品をイギリスが専売にし、重税を課していることは植民地支配の不正義の典型(分かりやすい→民衆の心を掴んだ)
・塩の行進は故郷ポールバンダルで思いついたのが描かれてた
・殴られて流血してるシーン…😭当時も世界に報道された
・ダラサナソルト

 

運動見て焦ったインド総督アーウィン
→英印円卓会議
国民会議派は話し合いを拒否したが、(何故?)
ガンディーはアーウィンとの会談に応じた。
・塩の自由生産などの妥協を引き出し
・ロンドンで第2回円卓会議:統一インドの即時完全な自治求める
ムスリムや不可触民の代表はイギリスの提案する分離選挙を受け容れようとしてガンディーは孤立😭😭😭
→帰国、運動、逮捕
・英はマクドナルド裁定(分離選挙)導入し、不可触民をも分離選挙区を認めようとする
Princely State, Hindu, Muslim ..

ガンディーは不可触民への差別を固定化するものとし獄中で無期限断食
・不可触民の代表のアンベードカルも妥協して不可触民の分離選挙は実現せず。
→ガンディーは不可触民の問題を真剣に解消しようと、彼らをハリジャン(神の子)と呼んでその解放を呼びかけ
国民会議派主流は完全自治の実現という政治目標から離れるガンディーを批判
・ガンディーもハリジャン運動に軸足→1934年に第2次非暴力・不服従運動の停止を宣言
イギリスは1935年に新インド統治法を制定。(地方自治を大幅に認めた)
🤔北東インドカシミールは?
・37年に選挙(ww2前やね)
国民会議派各地で勝つ  
→少数派のムスリム連盟に危機感、対立深化😭
・ガンディーは国民会議派の選挙参加を支持

 

(映画では出なかったが…日本の侵略に対し)
世界恐慌😱
→ドイツ・イタリア・日本などのファシズム台頭
→1939年第2次世界大戦勃発。(インド選挙の2年後)
イギリスは戦争遂行にインドの人的、経済的資源が不可欠→参戦させた。
国民会議派は独立の好機であるのにイギリスがそれを認めず一方的に戦争に協力させようとしているとして反発
→地方政権から引き上げ、戦争への非協力
・ガンディーはさらに積極的戦争反対の立場から非協力を貫く。個人的な非暴力・不服従運動。
ネルーらはファシズムとの戦いを優先してイギリスへの協力を主張(前にイギリスに裏切られたのにな?)
・チャンドラ=ボースは「敵の敵は友」と考え、ドイツと結んでイギリスと戦うことを主張。
😑…意見分裂
・1941年12月、太平洋戦争(as part of ww2)勃発
・日本軍がマレー半島ビルマ→インドにも脅威
・ガンディーは日本の中国侵略を非難し、日本にも非暴力で戦う

🤔ナショナリスティックな気もする
“インド人”とは?

"イギリスが去るとき友人として送り出したい"

●インドを立ち去れ運動(Quit India)
アメリカ・中国はイギリスに対してインドの独立を認めるよう圧力
チャーチル首相はクリップス特使を派遣してインドの戦争協力取り付け試み
・ガンディーは拒否(クリップス提案が即時独立でなく、戦後独立)
→1942年8月、イギリスに対し「インドを立ち去れ(クィット・インディア)」
民衆に行動促す
→イギリスは直ちにガンディーらを反戦宣伝の理由で逮捕
・44年に日本のインパール作戦が失敗したため、インドを立ち去れ運動は停止
(因果関係がなぞ?)


😭この間、ジンナーの指導するムスリム連盟は一貫してイギリスの戦争に協力国民会議派を非難して、1940年にはパキスタン決議で分離独立を明確に
😭コミュナリズムの対立に心を痛めたガンディーは熱心に両教徒の融和を説いた。
(イギリスはコミュナリズム仕掛けてたのだろうか?ムスリムになにかしたとか…)

"戦争が終われば独立は実現する。どんな形になるかが問題だ"
"貧困は最大の暴力"
"ヒトラーにも非暴力で?"
"ヒトラーの不正を受け入れてはならない"
"どの街にもいるやん,ムスリムもヒンドゥも"
"ネルー君を首相に"
"でもヒンドゥーの子が内戦するよ"
Fast again...
🤔もしガンディーがムスリムやったら?
もっと過激だったかも?それは私の先入観かなぁ。
5000ずつのムスリムとヒンドゥの子が平和のマーチにきます。と聞いて断食をといてオレンジジュースを…
🤔ムスリムの旗はなぜ黒い?
😭,"ムスリムの子に自分の子を殺されたからその子を殺した"
"救われるためには、ムスリムの子、親を失った子をムスリムとして育てなさい"
バジュランギや!(ちなみにバジュランギはハヌマーン神の別名(「ダイヤモンドの肉体を持つ強き者」のような意)

🤔なんで宗教間でそんなに憎み合うの?
権力?イギリス?
🤔インド長く住んでてパキスタン旅に行った人いたけど、イミグレ問題ないのかな…?

 

●インドの分離独立
第二次世界大戦末期に成立したイギリスのアトリー内閣
・1947年7月、イギリス議会がインド独立法を可決
・ガンディーの説得にもかかわらず、国民会議派ムスリムとの分離独立を容認
・インド連邦独立式典にはガンディーの姿はなく、彼はベンガル地方ムスリムとの対話を試み続けた
ヒンドゥー教急進派にとってはムスリムに妥協しすぎ→1948年1月30日、狂信的なヒンドゥー教徒の青年ゴードセーによってassassinated..😭

 

●communal problem by コトバンク
特にアジア,アフリカなどの旧ヨーロッパ植民地で,植民者の恣意的な分割の結果,宗教,人種,身分などを共有する集団 (コミュナル) 同士が不自然な状態で共存または分離させられることにより生じる宗教的,社会的問題。インドとパキスタンイスラエルとアラブ,アイルランドプロテスタントカトリックなどがその例で,ときに大動乱に発展する危険をはらんでいる

 

参考;
https://www.y-history.net/appendix/wh1503-086.html