【第三部】コーランには本当は何が書かれていたか?…政治と信仰、多様性
If the ocean were ink
最後のまとめ。
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Part 1 導入
https://1234567.hatenablog.jp/entry/2020/12/27/231309
Part 2 女性の闘い
https://1234567.hatenablog.jp/entry/2020/12/28/043108
Part3 まとめ
https://1234567.hatenablog.jp/entry/2020/12/28/082316
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●P297
シルクとは…神に同格のものがあるとみなす重罪
イエスの誕生は異常なもの。
父のない人間信仰を捨てた信者に神の力を思い起こさせるためにあった?
イエスは十字架ではなく、生きたまま天に上げられた
P300
●現代のイスラーム教徒も自分たちの信仰の見せかけに簡単にしがみつく。どの宗教も外側に見えるものの方が重要になる。内側の魂は忘れられているのです。
現在イスラム教徒の99%は宗教をアイデンティティだと考えています。しかし求めているのは信仰と行為です。
…このあたり、むうさんはどう考えてるんやろ?🤔
P301〜
●人々の違いは単に容認されるばかりでなく、神の計画でもある、とアクラムは書いた。アッラーがそう望まれたならば、全ての人間が同じようなものとして作られただろう。しかしアッラーは人間に、意思の潜在能力を与えられた。それで人間は信仰思想において様々に異なるのである。
(これ、むぅさんも言ってた。神は人間にクリエイティビティを与えた、と)
自分の祖先の信仰に闇雲にしがみつくのは傲慢である。
救いが欲しいのであればユダヤ教徒とキリスト教徒はムハンマドを預言者として認めなければならない。
進歩派は神は様々な形で神を信仰することを許していると考えている?!
イスラム教徒ではないが、(イスラームを知らずに)信仰者であるような人々が救われることがあるでしょう…それは神次第である。
キリスト教徒やユダヤ教徒を共同体のメンバーとみなさず、不信仰者という風に捉えたのはムハンマドではなく中世の法学者たち。
P312
●イスラム…一般的な言葉で帰依する、の意味。
大文字のムスリムはイスラム教徒。
小文字のムスリムは神に帰依する一神教徒。コーランのメッセージの多くは小文字のほう。つまり神に帰する者すべてに向けて書かれているとアクラムは考えている。
ダアワ…イスラム教へと呼びかけること
P317
●メディナ時代の初期…ムハンマドは彼のメッセージは啓典の民すべてに向けられたものであることを強調。
メディナの最初のイスラム国家において預言者ムハンマドはイスラム教徒と他の人々すなわちユダヤ教とキリスト教、異教徒の諸部族との間に不可侵を貫くことを保障。
ユダヤ教徒の安息日土曜日にならって、かつ重ならないようにし、ずらして金曜日は集団礼拝の日に。
成功した国家は他の宗教に対して寛容だった😇😇😇😇😇ムガル帝国でアクバル帝は特に、多数派ヒンドゥー教も尊重して、1564年に非ムスリムへの人頭税(ジズヤ)を廃止してたし。
17世紀後半のアウラングゼーブは1679年にジズヤを復活させて、それに反発したヒンドゥー教徒などに対する弾圧をはじめて、様々な問題が…😭
カーラの友人アクバルさんと、アクバル帝が同じ名前なのがなんかシンクロニシティ😇
●イスラム教徒を友にしてはいけないのか?過激派…アル=ワラー・ワル=バラー(忠誠と分離)という思想を持っている人がいる
。
●コーランの第5章51節.
お前達より前に啓典を受け取った民を友としてはならない。
…何が大事かと言うと…
文脈が大切📝📝📝📝📝
ある時期のメディナで戦っている時、迫害された時にふった言葉だった。
アクバルはむしろ、他の宗教の信者に手を差し伸べるようにいう。…
結婚式にはイスラム教徒でない隣人を招くこと。
サモサを作ってあげること、あるいはケバブ、ビリヤニ。
聴衆が南アジアにルーツを持つ。
シャージャーハンの時代の話、ウルドゥー語の詩句を読み、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が出てくるジョークを披露した…
それは彼の足場がイスラム教だけでなくインド亜大陸にもあることを思い起こさせた。
新しい国に対する受容的な態度は彼が自分自身の信仰と文化にたっぷりと浸っているからに他ならないのではないだろうか
💡なるほどなぁ。自分のルーツを分かっている。
p329
●正義のために戦っても平和を得ることはできない
イスラム教において正義の占める位置はキリスト教において愛の占める位置に概ね等しい
パレスチナやカシミールに暮らす人々をごらんなさい…彼らは空間🌅、時間⌚、教育📔を必要としている。
正義を求めて戦い続けてもますます失っていき、正義を獲得することすらできないでしょう。
正義にこだわると弱い立場のコミュニティーはますます弱くなる。なぜなら権力者がそれを与えようとしなくなるからです。😭
むしろ、ますます憎むようになるでしょう。
真理を追求するのではなくって何ができる???
→妥協すること。妥協は平和をもたらす🕊。時間と空間を与える。平和をもたらしたいなら時間⌚を稼ぐ。
「平和はより良いものである」とコーラン。第4章128節
💡なんか逆説的というか戦略的というか、壁を越えるより回り道せよ的なウィット、いいな。
でも、妥協って平和もたらすのかなぁ。甘んじてたらそれでいいって思われて、待ってる間にこちらが壊れてしまわない?妥協するけど主張もするってことかな?先の希望を見据えてたら壊れないのかな。
まぁでも確かに正義を求めるってコントロール欲求ゴリゴリでうまくいかんよねぇ💦
P350
●何もしないことです。そうするとよくなる。
…やれカリフ制だ、シャーリアだ、ジハードだ…
行動をストップすれば、イスラム教はもっと多くの人々の関心を引きつけます。
P360
●あえて大雑把に言うならば、ジハードを行う少佐と、アクラム、似ている。
○どちらも敬虔なイスラム教徒であり聖典を重んじる伝統の中にいる。
○どちらも専門職として成功した教育がある。
○南アジア人であり、西洋の人とともに威信ある機関で働いたことがある。
違うところは…?
◇強いイスラム社会とは何か、それを達成するにはどうしたらよいかというVision👀が異なる。
アクラムが提唱するのは個人的経験と平和の必要性。
第4章76節の悪魔の後見等と戦う?という文言に、イスラム教と全体あるいは人類全体に対する命令を読み取る人がいる。
特定の瞬間について述べたものとして、文脈をとらえているのか?
アクラムは言う。ジハード戦士ははるかに表面的西洋化を遂げている。ほとんどはマドラサの教育を受けていない。😳彼らの多くは古典的なイスラムの微妙な意味合いなど学んでいない😳
むしろ、工学、プログラミング、医学といった専門技術的な教育を受けている。
😳
だからある意味本当の意味でムスリムではないのかも…?
P374
●アクラムは燃え盛る火を描写するアラビア語について説明した。アラビア語には火の恐ろしさがよく表れているという。その火は森のライオンのように貪欲だ。その火は大変空腹で猛り(たけり)狂っているので、人間を捉えるとすぐにでも彼らを食べてしまおうとします。
384
●カーラはアクラムに尋ねた。
「私は結局どうなるとあなたは思う?帰依しなくても私が善き人間であることは可能かしら?それでも私は地獄に落ちる?🤔🤔🤔」
アクラムは淡々と語る
「コーランの考え方によると、アッラー以外に崇拝すべき存在はないと信じるまでは、人間は救われないのです。信仰持たずに平気でいるとすれば、この世において何らかの報いはあるかもしれませんが、本当の救いにはなりません」
「では、あなたは、全く疑いを抱いたことがないの?」
「時々本当に怖くなる時があります。自分が信じる者のまま死ぬという保証はないのです。全ては神次第です。」
何事も確実な事はありません。神の100%の存在証明を提出することなど不可能です。神が存在しないと100%証明することも不可能ですが。
西洋では人生の一部分しか知ろうとしません。
若さには目が行くけれども、死を見ようとしない…
死が何を意味するかを知るべきだ!老齢、病気、貧しい者…彼らも社会の一部であるべきです。
疑いのレベルが違った。。神ではなく疑うのは自分。。
■終章 多様性を受け入れる
アクラムの視点から世界を眺めたことで、
私は自分という人間の輪郭を知ることができた💡コーランの根本には差異を理解するという価値観がある。
イスラム教徒たちはそこに繰り返し繰り返し帰っていくのだ。
カーラは結局改宗しなかった。
その決断のプロセスはどうだったんだろう?🤔🤔🤔
やっぱ納得できん部分が残ったんやろね。
探求は続いてそう。
獲得や消費に対するアクラムの無関心は、私の気持ちを落ち着かせた。
ウォール街の前日の終値、試験の成績、服のサイズ、幸福でさえも、私たちが神の許から来て神の許に帰るという事実の前には、意味をなさない。😇
自分がちっぽけで無力な存在であることを常に思い出させられて、かえって私は力が湧いた。😇
コーランが統合された一個の全体であるという理解には未だ到達していない。
数多くの章句に私は感動したが、どれも涙を流すほどではなかった。師に対して公平を期すために言うと、コーランはもちろん翻訳不可能なのだ。しかし別の見方もできる。新解釈に挑む翻訳者たちは、コーランは翻訳できないということではなく、コーランは豊かだということを示唆しているのではないか。この見方は世俗主義的ヒューマニストである私自身の信条にも一致する。
アクラム独自の信仰のあり方が、最も基本的な人権を擁護し、国家の命ずる法よりも個人の良心を重んじること教えられた。
私は彼の信仰が様々な可能性を秘めていることに気付かされた。
確かに家庭における女性の役割、同性愛者の権利をめぐることについて議論した時、彼の包容力にも限界があることを私は知った。
もし私が自分の世界観に位置する立場からのコーラン読解を本気で求めるのなら、フェミニストのパイオニア、新しい世代のブロガーや著述家にあたる必要があるだろう。
アクラムと意見が一致しなかったときも、その衝突は私に現在一般的となっている西洋の視点が、比較的最近になって形成されたということを思い起こさせただけだった。現代のイスラム社会のダイナミズムだけではなく、西洋社会のダイナミズムもまた私は意識するようになった。
確かに社会は変わり続けている。
イスラムがどう、ってより、
その人の、信仰がどうか、だなぁ。
アクラムは全く絵に興味を示さなかった。彼はそこにある芸術に心動かすことなかった。アクラムにとって絵画は想像を掻き立てるものではなく、むしろそれを妨げるものなのだ。
預言者たちへの尊敬から、私たちは彼らを限定することを好まないのです。
描くと彼らを限定することになります。
承認されたいという欲求でないとすれば、つながりを持ちたいという欲求があったのだと思う。
お互いに対する興味を彼の側からも示してもらいたかった…!!!!(わかりみ!!!)
私が彼の世界観に近づいていったように、ほんの一瞬でもいいから彼に私の世界観の方にあゆみ踏み出してもらいたかったのだ。
多様性を通じてのみ人は自分を知ることができる。
実際には来てくれたということ自体が、彼が私の価値観の多くを承認してくれていることの証拠なのだった
そうだねぇ…
つい、分かって!私は分かろうとしてあげてるのに、フェアじゃない!とかイライラしてしまうけど、、そして自分の寛容度の低さ、impatienceに自己嫌悪…
完全に分かり合うのは難しくても、自分のことも相手のことも大切に思い合うことができますように…maybe that's God's plan...🙏🙏🙏