Just Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。

読書メモ べてるの家の「非」援助論 & 三村洋明 『反障害原論』&H.Dクラーク 『差別社会の前衛』

 

メールを整理していたら2011年の読書メモがでてきた。

べてるの家の「非」援助論。

関心続いてるなぁ。

今と感じ方違うのかな。

備忘メモ。ほとんど引用メモっぽいけれど。

 

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第5章
P47~
偏見・差別大歓迎 けっして糾弾いたしません。
P48
べてる?最低!
そこではいろいろなことが起きた。
二階にちょっと変わったアルコール依存症の人が住んだことがある。酒を飲んだらすぐ病的な酩酊状態になってしまい、目つきが変わる。ラジカセで軍歌をかけ、どこから持ってきたかわからない日の丸を物干し竿の上にくくりつけ、町の中を練り歩くのである。毎朝、皇居の方角を向き「遥拝ようはい」をしてから活動を開始するという筋金入りの愛国者でもあった。

・・・

精神科を退院した人たちが繰り広げる奇想天外なエピソードはすぐ町中のうわさになり、べてるの家も含めてそのイメージは最悪だった。そのため住居の確保ができない人たちは、刺青の入った人たちが住む古いアパートの一角が空いたら入れてもらうしかなかった。町で暮らしはじめた私たちは本当に肩をすくめ、小さく目立たないようにしていた。

 

P54
誤解や偏見あたりまえ!
このようにしてMUGの人たちとべてるのメンバーが中心となり、「べてるの家の本製作員会」が発足したのであった。
その準備をしているとき「福祉だとかそんなことあんまり考えたことがないから、勉強する場がほしい」という声があがった。それがきっかけとなり、地域住民とべてるのメンバーや関係者がともに語り合う「精神障害について学ぶ会」(後の「こころの集い」)がはじまった。
1991年5月、記念すべき最初の集いのタイトルは、「偏見・差別大歓迎!けっして糾弾いたしません」というものだった。べてるの挨拶は次のようなものだった。
「日ごろたいへんお世話になり、ご迷惑をおかけしております。救急車は呼ぶし、パトカーは駆けつけるし、新聞配達をしているメンバーはいつも、花畑があろうと野菜が植えられていようとも最短距離で通り、しかも所かまわず立ち小便をしまして、ひんしゅくを買っております。今日の集会は、そういうことも含めて、ふだんべてるに対して感じていること、経験したこと、なんでもかまいません。私たちに感じていることを遠慮なく話してください。今日は『偏見・差別大歓迎!』とういことで考えております。
この集会には、町の人たちが数十人も来てくれた。円座を組み、自己紹介からはじまった。

(そんなにオープンに受け止められるのすごい。けど、グラウンドルールを奏しておくことって心を開くのに大切なのかも)


精神分裂病の○○です」
「アル中の○○です。みなさんにいちばんご迷惑をかけています」
「入退院を繰り返しております」
こんな感じでべてるのメンバーは、病名とともにみずからの体験を紹介した。
町の人たちも遠慮なく、「じつはここに来るまでは、べてるの人たちが正直いってこわかった」と言ってくれた。
笑いの絶えない、じつに楽しい集会と成った。それを機会に、町の人たちとの絆が深まっていった。

 

以来、べてるでは「偏見をなくそう」ではなくて、次のように町の人たちに言い続けてきた。
「偏見?ああ、あたりまえです。差別?みんなそうなんですよ。誤解?誤解もよくあることです。病気をした私たちでさえ、この病気になったらもうおしまいだなどという誤解をして、慣れるまでけっこう時間がかかりました。ですから、みなさん大丈夫です。あまり無理して誤解や偏見をもたないように努力したり、自分を責めたりもしないほうがいいんです。体をこわしますから」

(これおもしろい~~
誤解もよくあることですっていう
垣根を低くする感じが
当事者性がうすいほうが、垣根が低い。)

 

P55「地域には偏見が渦巻いている」という偏見
「誤解や偏見」は、誰かがもっていて誰かがもたないというものではない。誰もがいつも誤解や偏見にまみれながら、信じたり疑ったり、自身を失ったり得たりしながら生きているものなのだ。精神障害という病気を体験した当事者も「精神分裂病なんて最低だ」という幻想に苛まれ(さいなまれ)ながら、自分の本当の価値を見出すまでにどれほどの時間と出会いと葛藤を費やしたことだろう。
精神保健を担う関係機関や医療機関は、地域住民を「精神保健に理解の薄い人たち」ととらえている。地域には差別や偏見が渦巻いていると考え、啓発活動に予算と時間を割いてきた。


P56 しかしこれまでの二十数年を振り返ってみても、浦河ではその種の直接的な啓発活動は見事なまでに開かれていない。地域の子どもたちのための「木のおもちゃ展」を開催したり、「こころの集い」を通じて教育や町づくりを考えたり、ミュージカルを企画したりと、MUGの活動を通して出会った人たちと一緒になって地域の活性化にむけた活動をおこなってきただけだ。「地域には偏見や差別が渦巻いている」と決めつけ、啓発活動をおこなってきた精神保健の専門家自身が、じつは地域を知らず、理解していないのではないか。
地域のなかにこそさまざまな出会いの可能性が眠っている。その意味で「地域の人たちは誤解や偏見をもっている」という見方そのものが、じつは地域の人たちへの「誤解や偏見」であったことに気がつかされるのである。

(逆転の発想だ・・・!)

 

当事者研究=ひとにつながる、つたわる言葉にしてかたる
むしろアライについて研究したいのかも?アライってあんまりでてこんやん。
OPENやのにマージナルのひと意外と定着しない
私レアなのかな?
なんでだろう

(こんなところに卒論の原点が生まれている…!)

 

2冊目。


三村洋明 『反障害原論』―障害問題のパラダイム転換のために―
2010世界書院

P5
運動の主体はあくまで「障害者」であり、教育から排除されてきた「障害者」の歴史もあります。運動に必要な理論を考えている「障害者」たちに。わたしの論考が伝わるのかどうか?これには悩ましいものがありますが、理論ということが持つ知の抑圧性ということを押さえつつ、「である」調から「です・ます」調に転換していった経緯もそこにあります。それは、結局、今、理論的深化が必要になっているところで、わかりやすさを追求しつつ進めざるを得ません。
(ぬぬぬーん。障害者が運動の主体
じゃーマージナルな人のやくわりって?
障害者で言うわたしのかんがえるマージナル
そうか軽度もありえるか・・個性ととらえると
むしろ親とか?
そこのあやうさもあるもんね、変に代弁したらちがうかったりするし。
そこなんなんやろう。役割分担?
ぬぬぬーん。
アライとにているものないのかな)


P6
日本の法律では、福祉の対象者としての「障害者」規定はされていないのです。周りのひとたちから(「障害者」、非「障害者」両方から)「わたしはあなたを障害者とは思わない」といわれることもあります。「吃音者」自身からも「吃音者は障害者とはいえない」という主張も出ています。多くの「障害者」は「障害とは何か?」というような問いかけを必要としないで、問いかけすることもなく「障害者」として開き直ることから「障害者運動」の出発点に立ちました。「吃音者」はむしろ「障害者」として出発するためには「障害とは何か?」をとらえ返さないと、「障害者運動」の出発点にも立てませんでした。そのことは一般化できないかもしれませんが、わたしは立てなかったのです。

P16
イギリス障害学の「障害者とは社会が「障害者」を規定する人たちに作った障壁である」という内容の規定がでて、それが「障害の社会モデル」として「障害者運動」を担うひとたちや、「障害者」サイドにたつ学者のひとたちに浸透してきています。
パラダイム変換。
(イギリスからなんだ
でも実感として沸いてないって~~そうなんかなーー統合教育は意味あったと思うけどな)

P115
絶対的排除と相対的排除
絶対的な排除:共同体からの排除
相対的排除:共同性からの排除のうち、共同体からの排除をのぞいたもの

 

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3冊目。

 

H.Dクラーク 『差別社会の前衛』1973 新泉社 (マージナリティ研究)
カラード
白人と黒人の間に生まれた子
見た目には白人として通るカラードのひとたちは、自分の価値観を白人社会の価値観に置く傾向が強く、そのことから自分の立場性の混乱に陥り、心理的葛藤に陥るという調査結果を元にマージナリティ論を展開。
自分がカラードであることを隠そうとし、自分の価値観も白人文化におき、自分を否定する気持ちが大きくなり、さまざまな心理的葛藤をもつことになります。抑圧型の差別をより多く受けているといいえます。この心理的マージナリティの問題は、「障害者」でも、「軽度の障害者」といわれるひとほど陥りがちで、排除型の差別を受けるのがより少なく「社会参加」を果たしやすい「障害者」ほどととらわれる傾向があります。
吃音者も。

(軽い、故の辛さみたいなものもあるんだな)


ADA法:アメリカ障害者差別禁止法

P235 障害者運動の概観
1970年代以前は「障害者」の運動というよりも、家族や教育関係者、研究者の運動という性格が強いものでした。それも「愛される障害者」像に基づく、慈悲と恩恵にすがるという性格から抜けだせる運動というのは少なかったと言い得ます。盲人、ろう者の運動は、当事者が中心になったそれなりの「権利獲得闘争」という性格はあったにせよ、多くの場合「愛される障害者像」から抜け出せないでいました。
70年代に入り、(当時の教育学園闘争や、ラジカルな労働運動という)大衆運動のインパクトもうける中で、「青い芝の会」がその会の性格を変えて登場してきます。「青い芝」は親の「障害児」殺しに対して「厳正なる裁判を」という要求をし、交通機関から車椅子での乗車を拒否される中で、バスへの乗り込み闘争を展開し、優生保護法改悪反対闘争、そして「さよなら、CP」の自主上映活動というかたちで、鋭い帝位をしていきます。
(うーCPってなに)
1976年には全障連が結成されます。そこにいたる家庭で、新しい「障害者運動」の流れが形成されました。その運動の理念の軸を三つのこととして表しえます。
半差別、代行主義の否定、発達保障論批判です。
代行主義否定か~~まきこめないじゃん。
親の「障害者」の子殺しにあらわれるように抑圧者としてみてる。。自分たちのことは自分たちで決める。
発達保障論:標準的人間になれるようになれ への批判

P29
例えば「車椅子の障害者」は「階段を歩いて上れない、だから障害者だ」とされるのですが、そこで、なぜ車椅子使用者が移動できない交通機関や建物、街を作ったのかという問題があります。街や建物や交通機関を設計企画する仕事から「障害者」が排除されていて、その設計・企画したひとたちが「障害者」の存在を考えることができなかったという問題があるのです。二つのできないという問題の出会いの中で、障害が生まれているのです。そしてこの障害を車椅子使用者の上にかぶせて「障害者」と規定するのが現在の社会なのです。

耳聞こえない人との問題も、耳聞こえないって点と手話できないっていうのの二つがかさなっている。

 

 

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なかなか、今にもつながるテーマで興味深い…

理論と実際、どちらもゆったりと眺められますように。