Just Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。

”日常の中にある「偏り」と向き合い、 そこに構造的な要因がないかと疑うことが、 多様な選択肢につながっていく。

 

沁みる記事を読んだ。
https://co-coco.jp/series/study/socialmodel_hoshika/

「“障害”って、一見バラバラな事象をひとまとめにしている、実はとても不思議な言葉なんですよ」
セクマイもそうだよな


”そもそも社会の都合で一方的に
くくり出されてしまった人々に対し、
同じ環境のまま共生や協働を提案してもうまくいきません。
「やっぱり無理」
という話になるだけですよね。
その矛盾を乗り越えるためには、
「どのようにするか」よりもまず、
「なぜ適合できなかったのか」から問い直していく必要がある。
議論が進むなかで、障害を取り巻くメインテーマが次第に、
個人の心身機能で“線引き”をする医学から、
社会全体のあり方を問う分野へと移っていきました。

この変遷が、いわゆる『個人モデル』(あるいは『医学モデル』)から
『社会モデル』への転換だ。”

たしかに。
できない理由よりできる方法を考えろ!!
とよくいうけど
ちゃんとWhyを考えてから
方法を考えるのも大事だ…
まぁHowを社会に向ければいいんだろうけれども。

”1983年、イギリスの研究者である
マイケル・オリバー(Michael Oliver)さんが、
著書『Social Work with Disabled People(障害者とともに歩むソーシャルワーク)』
の中で新たな概念として社会モデルを提唱。”
Disabledっていう表現使ってたんだな。
社会によってDisableされたってことかな??


”1992年には、世界で初めて障害者の差別を禁止する法律が
アメリカで施行されました。
その後『障害者の権利に関する条約』も生まれ、
各国で法整備がなされていきます。”
意外と遅い…?92年か!
60~70年代くらいかと思いきや。

”注意が必要なのは、そうした障害学の理論は本来
「なぜ困難が生じるのか」という“問題を生んだメカニズム”
に目を向ける理論であることだ。
にもかかわらず、目の前の問題への“対処を行う主体”が
「個人」なのか、「社会」なのかを問う手段になっている場合が多いという。”
それはクリティカルな問いかも…

社会のせいだから~!!
みたいなのもなんか。ちがうし。
と私は思ったが、
そこよりも

”マジョリティの側の都合だけで改善が進んでしまうリスクがあるからです。”
それはすごくある。。。

”この寓話は、「車椅子ユーザー」が多数派で
「歩く人間」が少数派という、
現実とは逆のような架空の村が舞台になっている。
描かれているのは、村にある「建物」と、
それにまつわるエピソードだ。”
めちゃ共感!
学生の頃に、LGBTQのコミュニティで
彼女いるの?といわれたのと似ている
仕事遅いし、メンタル豆腐だし、
みたいな気分になるときも、
速くて強いがいい!
という規範にとらわれ過ぎている。

”村には福祉・医療の専門家がいるため、
マイノリティ(歩く人間)が被っている問題について
懸命に議論が進められていく。
しかし、マジョリティ(車椅子ユーザー)である
彼らから出てきたアイデア
「頭を傷つけないようにヘルメットをかぶってもらうこと」や
「歩けないよう手術し、車椅子を提供すること」などだった。”
比喩、うまい…!

”個人モデルの考え方がベースにあると、「良かれ」と思った対応も、
知らず知らずのうちに無理な押し付けになってしまう場合がある。”

”困っている状態に社会が手を差し伸べてくれるのは、
助かった瞬間は「ありがたい」と感じるかもしれない。
でも、問題の根本から目をそらし、対処療法的な状態が続けば、
非対称の関係は再生産されてしまいます。
障害者が常に「助けられる側」に置かれ続ける状況になる、
ということです。
これは当事者にとって非常に生きづらい世の中だし、
自らを権利の主体と捉えて社会に参加することを、
難しくしていくのではと私は懸念しています。”

わかりみ。。。


”ここで星加さんが付け加えたのは、
こうした考えは医学の発展や、
現場での医療行為を否定するものではないということ。
あくまで“問題のメカニズム”を認識する理論として、
個人モデル(医学モデル)ではなく
社会モデルで捉えてほしい、という点だ。”


”個人の選択に対して、社会モデルは評価する立場でも、
行動を縛るものでもない。
だが、そこで個人モデルの考え方がベースにあると、
「生き方の選択肢を限定する恐れがある」と星加さんは強調する。

星加「個人の心身に問題の原因がある」
という考え方が支配的になると、
自分自身をマジョリティ側に合わせる生き方を選び続けないといけません。
その状況で「社会の側が変わってほしい」と主張をしても、
「わがままだ」とか「解決できない側にも事情があるから何とかして」
といった自己責任論になってしまいがちです。”

”このことにどれだけ気付けるかが、
本当の意味で「ダイバーシティ」や「インクルージョン」といった
言葉を実現するときに、私は重要になると考えています。”

ほんまやわ~~~

てか、
わたし、これ、卒論で
書いたことと、同じ!
だとおもうわ。
これをすすめてくれた上司に
論文送りたいお気持ち…
どこかにアップロードしようかな…

”マジョリティ側の人にとって、
障害の社会モデルを受け入れるのは、実は非常に大変なことです。
これまで当たり前だと思っていた環境が、
自分にとって有利に構築されていたと気づかされるのですから。
場合によっては自己肯定感も傷つくでしょうし、自分の持つ特権性に気づきたくない、と思う方もいて当然だと思います。

でも、この無自覚な偏りに気づいてもらうことからしか始まりません。
こうしたプログラムへのネガティブな反応を将来的に減らすためにも、
あらためて社会モデルを広めていかなければと思いました。”
ほんとそうだよねぇ。

”日常の中にある「偏り」と向き合い、
そこに構造的な要因がないかと疑うことが、
多様な選択肢につながっていく。
本当の意味での共生社会も、
その先にしか生まれないのだろうと感じる。”
Well said!!!
ホントにそうだなぁ。。。

記事を書かれた #庄司智昭 さんの言葉のセンス、
葛藤の表現も素敵。

編集者。「人口減少時代の豊かさを探求する」という言葉を大切に、ローカル事業者やスタートアップのコンテンツ制作をサポートしています。ローカルマガジン「おきてがみ」をnoteで運営中。
だそう。
きになる。
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