Just Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。

平和というテーマは遠いものなのか?~平和は社会的な産物

ポンナレットさんのお話を聞いた。

緑色の、シルクかな、 つやのある美しい服をまとっていらっしゃった。


平和ってなんだろう?

平和について考えることはありますか?

機会がない?ほんとうに?


ポンナレットさんは、ポルポト時代を“生き延び”て、 縁あって日本にのがれてきた、
という経験を持つ方。
ポンナレットさんにとって、「平和はいのちの次に大事なこと」 と言われていた。
生き延びた意味を考えるのだという。
……伝えることが、役割ではないか、と。


日本にのがれてきた後、19歳で、海老名市の小学校に入る。
「学びたい気持ちが抑えられなかった」のだという。
20代で中学生。
結婚、子育てを経て、お子さんが小学生になり落ち着いた頃、
ご自身は30代になった時に、通信制の高校へ。


*わたし自身、 外国につながる生徒さんに間接的に関わることは多いけれど、
学ぶ意欲を削がれているケースもあって、 どういう環境づくりが必要なのかな、と思う。
ベースとしての先生や周りとの信頼関係、安心感や、親御さんの考え方や。


講演は、カンボジア語のあいさつで始まった。やわらかな響き。
タイ語ラオス語のルーツでもあるという。
確かに、タイ語よりさらに複雑な文字に見える。
カンボジアの歴史を、手書きでまとめたものも見せてくださった。


社会状況は、かのじょの人生に深く影響を与えてきた。
意識していないかもしれないけれど、 本当はわたしたちだってそうだ。


5人の兄弟、3人の姉妹と、両親の10人家族。
クメールルージュで虐殺に遭い、残った家族は4人。


1975年、 ポンナレットさんが10歳の頃に始まったポルポト政権。
“4年続いた”政権。それは、支持する人がいたから。
国民の半数くらい、当時は支持していたという。
75年の4月17日、プノンペンから強制退去。
当時は、「3日間だけ移動せよ」、という始まり方だったという。
当時の写真が残っている。
(写真家の一ノ瀬泰造さんは、 シェムリアップ州で処刑されたという。 かれはベトナム戦争中に日本に一時帰国していて、 ホーチミン市戦争証跡博物館にはその関連の展示もあるようだ。 )


*そんな、お試し感覚を装って騙すって、巧妙さが、 ひどさを引き立ててしまっているように思う。
他人や、”国家”から持ちかけられる“実験”は、 気を付けないといけないのかもしれない。。
日本だってそうだ。。
そして、洗脳って、本当に恐ろしい。。。
自分の”常識”・”ふつう”と違うものに触れるって、” いのちをまもるため”にも、必要なことなんだと思う。Be critical.


教員の母、知識階級の父。中学校以上は知識階級だとみなされた、 という。
(ちなみに、小学校4年生から、 学校ではフランス語を学ぶようになっていたそうだ。)
仕事に行った、と思ったら、いつのまにか強制連行されていた。( つまり、殺された)


食べるものがない。タランチュラも食べていたという。
向こうも猛毒もちだし、命がけで命をもらっていたのだろうな。。
かれら(虫たち)に助けられた」とお話しされていた。


小学生の頃、 祖母から戦争の頃のごはんの話を聞いたことを思い出した。
お米がとても少なかったから、ほんのすこーしのお米に、 大根の葉っぱを入れてお粥を作っていた、
と聞いた記憶がある。
第二次世界大戦を直接語れる人がどんどん減っている中、
戦場が日本であったかどうかや、争いの種類の違いを超えて、平和について考える生身の経験に触れることや、
たとえ間接的であったとしても、
(私ぐらいの、)直接話を聞けた世代が、 次の世代に伝えていくことも大事なんじゃないかと思った。


平和をつくれるかどうかは、社会次第。
そして社会は人間の集合体なんだ。