越境するペルー人を読みました。_φ(・_・
田巻松雄、スエヨシ・アナ編
●田巻先生のいらっしゃる宇都宮の背景
栃木県内の日本語指導が必要な児童生徒
2012年5月 575人。
うち、4割スペイン語、3割ポルトガル語、続いてフィリピン、中国
7割が南米ということ。
(ちなみに2016年データだけど、日経新聞によると、要日本語指導の児童生徒トップ3県は
愛知県およそ7,000人、神奈川県約4,000人、東京都約3,000人。
東京は留学生や駐在員、富裕層が多いのかな。全国で30,000人超。)
●ペルー概観ー日本と繋がったり距離が出たり
【中南米で初めて日本と国交を結び、移住した国】
1873年日秘和親貿易航海仮条約
(日米〜の19年あと)
きっかけ:マリア・ルス号事件
清のマカオからペルーに向かっていたペルー船マリア・ルス号が悪天候のため横浜に。乗っていた清のクーリーが脱出しイギリス船に助けを求めた。イギリスはマリア・ルスを奴隷運搬船と認め日本政府に対し清国人救助を要請。日本は人道的観点から開放。(WW1(1914-1918)のあと、人種差別撤廃条約を日本が提案していた!)ペルーからは損害賠償請求受ける。
明治維新により農地改革、医学の進歩で人口増加、土地を持たない農民、失業増える
ペルーでは1854奴隷制廃止、1874クーリー廃止、農産物の供給者として世界経済に参加。
→日本からペルーへ契約移民。サトウキビ畑。アウグスト・レギアと、日本の企業家、田中卓吉の友好関係も影響
1899第一回日本人契約移民 男子のみ790人
1903女性含む家族移民
1906契約期間4年から大幅削減
1923契約移民、禁止→呼び寄せのみに
【反日政策】
1930年代排日的政策が起こった理由
1)日系ペルー人がリマに集まり住む
2)経済的にペルー人と競争的
3)分離主義的
4)日米間の緊張
2は分かるけど、、
1は何が問題なんだ?集住するとコミュニティ固くて現地民と共生できない?
でもそうだとしても日系人だけのせいではなかろう〜?!
3も同様に、一方的に日系人に責任押し付けられないと思う。日本自身がいまオープンかって言われるとすみませんな感じだけどさ。
1940年 リマで反日大暴動。
41日米開戦→ペルーも日本に宣戦布告
戦時中日本語禁止政策→日本語教育衰退
1988年調査 約半分の家庭で誰も日本語を使わない
1966年調査 一世の58%は沖縄出身
日系と非日系の婚姻率
66年調査 男13%女8%
89年調査 男35%女31%
だんだん溶け込んでる?
日系人(ペルーで8万人くらい)で日本語話せる人10%。
私の知り合いでも日本に来てから勉強したという人あり。
【日系人の出稼ぎ】
○1980年代後半から90年代の市民テロ、
貧困、インフレ
→日系人の、ペルーから外への出稼ぎプッシュ
○1985-89 隠れた出稼ぎ移住
アラン・ガルシア大統領の時代(1985-1990、2006-2011)
経済危機
→「銀行の国有化」と「対外債務の返済凍結(返済額をGNPの1割に制限すると宣言)」
→後者はIMFの激怒を買う
→ペルーは投資不適格国の烙印
→政権末期には、年率7000%以上のインフレ
→フジモリにバトンタッチ。後ほど仲悪くなり、訴追されコロンビアに亡命、フランスへ
○1990アルベルト・ケンヤ・フジモリ・フジモリ
リマ出身、日系二世
国家復興に伴う痛みは日系中産階級を直撃
新自由主義モデルによる経済成長。テロ悪化。
国有財産の売却、外国資本の石油、天然ガス、鉱物資源への投資を積極的に誘致。
マクロ経済は安定。
なぜ、日系にも不利になることをしたのだろう?国に対して誠実だった、、のか?
しかし後に「アウトゴルペ」
→大統領の権限強化。政府と国会の改革を断行
○日系の大統領
→30,40年代の反日感情ぶりかえし
&1989入管法→日本へ流入
○1990前半 出稼ぎピーク
○1990後半-2001家族再統合、連鎖移住。子どもの呼び寄せ
○2002- 自立的な移住
【帰国支援したが乗らず】
○2009年:前年のリーマンショック後、南米系労働者の帰国支援(厚生労働省を通じ渡航費支援)
効果は薄かった。利用者12000人。90%以上ブラジル人、ペルー人は4%。日本に住むペルー人の1%しか利用せず。
なぜたろう?ペルーに帰るメリットうすかった?
【典型的な日本への移民パターン】
日本語ゼロでくる。祖先が日本人かどうかによらず。
たまたま日本、という人も。
工場なのでそこまで日本語いらない。
安全管理のためのポスターはスペイン語、ポルトガル語も。
日本語勉強する時間がないほどの労働時間
労働時間(平均12時間)や契約内容の説明なし
短期1,2,3年の予定だが、ペルーの治安悪化(1993反政府ゲリラのセンデロ・ルミノソによるテロ)、子どもの成長、経済面などから長期化
☆日本人がインドで働くのは、
会社命令か、英語での仕事、裁量がほしい、あるいはインドが好きか、だなぁ
アジアの中でインド、だと、給与が他の国よりは良い、という面はあるが、
日本のほうがよいわけで、オカネは脱出の契機とはなっていないだろう。
【いろいろなライフヒストリー】
家買いたい人多い。
月給35万(人による。20万〜)、ペルーの15倍
母の世代では(本人50代)日系と非日系が結婚するのをよく思ってなかったので、自分は日系社会を離れた。
22年も日本のような落ち着いた国で生活していると、リマ市内の渋滞には頭がおかしくなりそうです
☆そうなのかーー!
デリーの道もクラクションが鳴り響いていたけれど。当時はそれも嫌いじゃなかった。でも、どうやら日本へ移るかもってなった頃は、不思議とデリーの騒音に嫌いな気持ちが芽生えて、あ、インドから帰れって言われてる、と思った。
ベトナム人の友達も日本住みやすい、空気きれい、と。
空気の綺麗さは確かに貴重。
日系人は信頼されている、なぜ?
ブラジルでも。
【ブラジルとのペルーの日系人比較】
ブラジル人の方が純粋な日系が多い
日本に来ている絶対数も多い
日本語ができる人も多い
国交断絶の経緯
本州とその他
工場でブラジル人がペルー人と日本人の間で通訳になることも。→残業などの有利な情報は回ってこないこともある
ペルーに家を持っている人も
また帰るつもりの人も。日本だと年取ると仕事がないため。
☆外国人として外国に生きようとすると、
ビザがいつも問題になる、
そしてそれは(配偶者ビザとかじゃない限り)労働、納税と直結している。
【DFR Dual Frame of Reference】
二重準拠枠
目の前の問題を解決しようとするとき、
母国と今住んでいる社会という2つの社会的文脈の中に問題を位置づけて比較しながら理解しようとする。
主に一世に見られる。
日本にいると、精神的な幸福はペルーにルーツがあることを認識。物質的豊かさは得られる。それにより、家族やペルーでの仕事を離れての、日本でのブルーカラー生活を乗り越える。
【教育制度】p109
落第制度あり
幼稚園
初等教育
中等教育
高等教育
11年間。初等と中等で。
その後専門や大学にいける。
●学校生活についてのコメント
ペルーの方が好き、いじめがない、意味のわからない校則がない、クラブやスポーツ施設はよい。日本は落第がないから違和感。ペルーは幼稚園から義務教育終わるまで同じ友達、一貫教育。日本は小中高と学校が変わる、新しい人になるので不安
生活全般は日本が好まれる傾向。道がきれい、都市が安全
日本人は冷たく、ペルー人はあたたかい
●特徴的なコメント
運がいいという人(2/16)
家族、親のおかげ(11/16)
●女の子の15歳の誕生日お祝いがある。
●想定家族
友達やバイト先での信頼できる関係性
●母語教育
スペイン語の通信教育がある
ペルー教育省から正式に認定されている制度
1 在日ペルー人の相互扶助組織Kyodaiが運営しているPEAD programa de Educacion a Distancia
1994-
2 ペルーの日系校ラ・ウニオンが運営するPEAD La Union
ベタ打ちだけど、とりあえずのメモでした。
なかなかペルーでここまで詳しいのがないので貴重。