Just Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。

ヨーガスートラ癒される…自由だ。。。

『ヨーガ・スートラ』佐保田先生


深い叡智によって得られた結果ではなく、叡智を人が主体的に得る道を教えているだから?宗教的経典とは異なる

インドの優れた人は合理的…ブッダは現実の人間の心を冷静に分析。ブッダの意味…めざめた人。暗闇の中の悩みの種は明るみに照らすと何もできない… 
スートラ…たていと、経極限まで言葉を切り詰めた文体サンスクリットがそうなのかな?

P13ヨーガという言葉の意味からヨーガという名称の内容を理解しようとするのは徒労 。ヨーガはあまりに多種多様、狙いや修行法もいろいろ、共通の特色や本質を探し出すのは難しい(そう思うとホットヨガも一つのヨガとして受け止めたら佳き、な気がする)

 

ラージャ・ヨーガ…心理的

ハタ・ヨーガ…生理的??

カルマ・ヨーガ…倫理的

バクティ・ヨーガ…宗教的??

ラヤ・ヨーガ…心霊的(初耳)

ジュニャーナ・ヨーガ…哲学的

マントラ・ヨーガ…呪法的

昭和に書かれた本で7つの種類さらにヴィアヤーマ・ヨーガクンダリニー・ヨーガ

バガヴァッド・ギーターの18章全ての題名にヨーガという言葉が組み入れられてる

ヨーガ…道、の意味でヨーガ的な道、修練とは?…

自我による自我へのみち

しかしそれはインドならヨーガにかぎらない

梵我一如も自我中心の観念

 

P15

宗教学者ハイラーは宗教的偉人たちがひらいた宗教形態を2つに分けた

1.神秘思想…各自の自我を中心

2.予言者的宗教…神の観念を中心
どちらの場合も現実の自我とその生きる世界をいったん否定することからはいる

そうすることで根元的、絶対的な存在と触れ合える

 

ヨーガを神秘思想ととらえると、色な宗教に適用できる??

(なぞ…予言者的宗教に適用するとどうなる…わかるようなわからんような…キリスト・ヨーギーが流行りかけた??

馬のコントロールに例えられる繋駕。(けいが)

 

ヴェーダーンタサーンキヤ・ヨーガ、歴史を通じて混ざったが、もともとは相容れないものを抱いている?! そうなんや?何が違うんやろ


仏教は無我説ヨーガはプルシャ(真我)の永恒性を標榜

この2つは矛盾はしない!!がアクセントの置きどころがちがう?? 

 

P24何故ヨガは一番先にサーンキヤ哲学と結びついたの?

サーンキヤ哲学は元来ヨーガから生まれた… 

原始仏教などは心理学的…

瞑想という心理的操作を中心とする心理的考察から哲学、形而上学的になっていく…

仏教も。

ブッダの死後,形而上学をもつようになる(?)

 

ヨーガは形而上学的体系はサーンキヤ哲学として、ヨーガ心理学からは独立した流派を形成

しかしサーンキヤ形而上学はヨーガ心理学が母体なので似ている  

 

P25

サーンキヤ哲学の概略

サーンキヤ哲学の根本特色2つとは?→実在論と、多元的二元論・実在論因中有果論satkarya-vada結果は原因のうちにすでに実在している

因upadana=質料因と形相因土で湯呑をつくるとき、その使った一定量の土の中に湯呑は既に実在している


世界の究極的実在は?唯一!のプラクリティ(自性)と、

多数のプルシャ(真我)プルシャは多数なんだ?

→多元的二元論
(でも非二元論すきなヨギーニもいる気が…非二元論だと無我なのかな?無我説@仏教と、真我説@サーンキヤは矛盾しなく、アクセントが異なるだけ

→なら、多元的二元論と、非二元論も、矛盾ではなく、アクセントが異なるだけ?) 

真我は、ただ、見るだけ。それが真我のあり方真我と自性が出会う自性は自分の方から、真我の経験と解脱のために自らを展開する

 

自性の展開のメカニズムは?
自性は3つのグナ(徳)からなる合成物ということから説明される

グナ…違った傾向をもつエネルギー

1)sattva 喜徳…快、微細、照らす

2)rajas 憂徳…不安、活動(扁桃体ぽいなーあーもんどらじゃす?)

3)tamas 闇徳…重い、隠す
グナの考え方はドーシャと似てるような?実際の分類は全然違って見えるけど

ポリヴェーガルとも似てる。

自性は変わり続ける。3つのグナが影響しあいダイナミックに結び合ううえに自性は成り立つ動的平衡みたいな?バランス崩れて壊れてまた動くみたいな…

P28

世界開闢(かいびゃく)のはじめにはsattva が優勢(そうなんやー喜びから)

Sattva のとき自性から展開したのが、

覚(Buddhi)=大(mahat)

それからrajas tamas が優勢になるにつれて、

諦(tattva)が現れる…形而上学的な存在(とは…?! ) 

Tattva...五唯(物質元素のもとの微細元素 )、

五大(物質元素)、意(manas )、十根(indriya)

心理的原理から物質的原理が発生したことになっているサーンキヤ哲学では心理的なものと物理的なものを二元的に考えていないし、それはルーツがヨーガ心理学だから
心理は真我と、覚以下の心理器官(脳のこと?)の合作


どうすれば解脱、すなわち、【真我独存】は実現する?

→真我と、自性が、混ぜられない二物であると本当に認識すること… えーそしたら梵我一如ではないのかね??

 

P31と193クリティカル…パタンジャリが書いたのではない?!

ヨーガスートラは無理やり編纂されている

あー前に座禅ご一緒したマレーシアの京大院生さんと語りたくなる…

ニローダ(心の止滅)が最初に書いてるけど最後にできた…つまり編者が作った!、

あたらしいので、仏教(ライバル)の影響が感じられる

 

☆2.28-3.55が一番早い、パタンジャリのスートラ。八支則の体系(Ashtanga)もここに。


P182ヨーガの言葉の意味…馬を車につける@リグ・ヴェーダ

三昧、瞑想の意味へ

 

どうやってそうなった?@Katha Upanishadアートマン(真我、霊魂)を車主と知れ。肉体は車体 、覚(Buddhi)は御者 、意は手綱。

もろもろの知覚器官が馬 、知覚器官に対する諸対象が道路(道路がシャバって感じかなぁ)


P186哲学…anviksikiアンビカと似てる〜哲学とは、政治学や経済学など、実利を研究する学問の基礎、裏付けとなる学問(by カーウティリアさん、「実利論」)

語(知覚の代表)→意→sattva智我→大我→寂静我→プルシャ(真我)上のものにより拘制/制感する…とこは、経験(心理概念)しかしプルシャだけは実態概念であり、経験ではないうーん、最後まで行くとワンネスぽいし、二元論超えてそうと思うんだけどな?二元論の定義イメージが違うかもなー


P199

八支則

1)Yama 禁戒 アヒムサ(非暴力)、誠実、盗まない、不婬、不貪

5つの戒律は仏教よりジャイナ教の戒律(vrata)に近い

社会的な内容に見えるかもだけど、

目的は社会秩序の維持ではなく、自分の心のお掃除…(耳が痛い)

2)Niyana 勧戒清浄sauca 、知足、苦行tapas…、読誦、自在神への祈り

◆精神の浄化7つ

・慈悲喜捨への念想

・調息

・幻覚的感覚現象の発現(??)

・白光のビジョン

・聖者の心を対象とする念想

・夢、熟睡などで得た体験を対象とする念想

・その他自分の好きなものの念想(自由やな!!)

◆知足サントーシャ→幸福

ヨーガは厳粛でなく、やさしい 

◆苦行…、読誦、自在神への祈りの3つ

→クリヤーヨーガ(行事ヨーガ)煩悩の力を弱めるする、ことで、

置き換えるのかも

リプレイスある意味埋める

いっぱい空気すう!→いらないの吐ける吸うが先か、吐くが先か、答えないなあ…笑

 

◆苦行タパス語源は熱。

熱したり熱くなるほどの激しい労苦でエクスタシー

バラモン教では古くから使い慣れた用語

後の世代では断食なども含める

ヨーガでの苦行…清淨&超能力の発現の要因… 苦行は禁欲というより、body conditioning

◆読誦svadhyaya一人で低い声で唱える…japaaum...イーシュヴァラ(自在神)のシンボル自在神とは…内在ってこと?? 自由自在の自在か〜イーシュヴァラは、最初のグル(霊師)バクティ信仰のイーシュヴァラとは別らしいグル、先生は大切…

 

P207

プラティヤハーラ呼吸法ではなく調息法

空気とプラーナ(気)は異なる

 

P43-

5つのチッタ
分別知は言葉がからむこれは実生活には役立ってる
★p471-12、15離欲…欲望の克服者たる自覚 (vasikara -samjna)離欲…vairagya

Samjna ってヒンディ語でも、理解するの意味で使うけど、自覚するってことなんやな欲深く練習するとうまくいかんかったり修習とのバランス

1-16

離欲の最高のものは、真我についての真智を得た人が懐くもので、

三徳そのものに対する離欲である

離欲には上下2つある

見聞きしたことへの離欲は低い方。

これも真智をえる補助手段になる。

真智…purusa -khyati …

真我は自署とはまったく別物であるという気づき

解脱のためには高いほうの離欲も必要。

真智に到達すると三徳(グナ)自体に対してさえ離欲の自覚を持つ

P41.17分類むずい…

有想三昧瞑想が深まるにつれていろんな段階の心理状態が現れる…

身体もそうかも

なのでその途中で喜んだり得意げになったり愛着持ったりするのは

恐るべき堕落の原因…

仏教では魔境とよぶ

ヴィパッサナーでもいわれた気がする。

深いわ…終わりのないたまねぎのような皮めくり

1.18 

無想三昧

もうひとつの三昧は、心の動きを止める想念を修習した結果、

止念の行だけが残っている境地である

止念の行は残ってるん!意識下に沈澱…チッタの中に潜在…

1.21 熱心さの強度と成功解脱を求める強い熱情をもつ行者たちには、

無想三昧の成功は間近い

P57

1.24自在神は汚されないプルシャ…
一切知…Sarvajuna...サルヴァンガアーサナみたい 

p59

1.26自在神は、太古のグルたちにとってもグルなのである。なぜかといえば、自在神は、時間に制限されたお方ではないから。 グルの前のグル、の前のグル、…となると神さまに遡る…そしてすべての修行者のために、いまも、自在神というグルに、時間を超えて繋がれる文章ではわからないことを伝える以上のもの…体験させること…師はほんとにだいじ…

1.27

この自在神を言葉であらわしたものが聖音、om
反復誦唱は低い声でつぶやくようにとなえる…ワタシちょっと高い声かも 
聖音誦唱と自在神念想は同時にやるのよい。

浄土門の唱名念仏はもとはこのような様式の念仏観

 

1.31 苦悩、不満、手足の震え、あらい息遣いなどが、こころの散動状態に伴って起こる 心が乱れると呼吸が不規則、かいてる
心の散動状態を対治する法…

なにかあるひとつの原理を対象とする修習が必要

心の静澄を得る法

1.33

慈、悲、喜、捨はそれぞれ他人の幸、不幸、善行、悪行を対象とする情操…これらの情操を念想することから、心の静澄が生ずる仏教で慈悲喜捨は四無量心と呼ばれる

ちょっと意外?心動くものについて念想するのか。でも慈悲の瞑想に通じる

慈…maitri...他人の幸福をともに喜ぶ心

悲…Karuna...他人の不幸をともに悲しむ

喜...muditae...他人のよい行為をともに慶賀する

心捨…upeksha..他人の悪い行為に対して憎悪も共感も抱かない心だから捨なんや…

 

1.34あるいは、気を出す方法と、それを止めておく法によっても、心の清澄はえられる→プラーナヤーマ吸うことについて書いてないな?調気については2.49以降にも書いている

1.35あるいはいろいろな感覚対象を持った意識の発現が生ずるならば、それは意(思考、注意の器官)を否応なく不動にし、心の清澄をきたすものである

Hmmm感覚に行くといったんうごく気もしてしまうが。でも五感は瞑想にいいしな…繊細に感じることで心が澄んでいくというのは、自分で感じてわかること…

1.36あるいは、憂いを離れ、白光を帯びた意識の発現が生ずるならば、心の清澄が生ずるものであるサンヤマの修習の結果と関係がある行者が、蓮華の形をした心臓に集中する修習→太陽や月のように明るい光がヴィジョンとしてあらわれる この光を見るとき、人はすべての憂いを忘れる…海辺で日の出日の入りを見るのと似てるかな何故こうしたヴィジョンが現れるか??→心の体は元来、光明からなり、虚空のように無辺だから。このヴィジョンの原因は我想(ahamkara/asmita)我想は、それが清澄なるサットヴァ性のものとなるとき、波立たない大海のように無辺で光り輝く光明のヴィジョンは心霊的体験としてありふれたもの(まじ!)

光明のヴィジョンは勝れた意味をもつけれど、最高の境地ではなく、心の静まっていく過程のいち段階

仏教もそういう感じ。

*心臓への凝念のやりかた

心臓が8つの花びらからなる蓮華、その中に光が満ちている、と想像  

息を軽く吸って、ゆっくり吐きながら、下を向いている蓮華が次第に頭をもたげてくるその花の中に輝く光に対して凝念すると、光覚幻影が現れてくる…

★⇛絵を描いてみたいね 

 

1.37

あるいは、行者の心が欲情をはなれた聖者を対象とするときにも、静澄が生ずる

仏教の法身観法とも通ずる

 

1.38

夢や熟睡で得た体験を対象とする心もまた静澄をもたらす

1.39あるいはなんでも自分の好むものを瞑想することからも、心の静澄は生ずる

1.41

定、三昧直観的なこと見るものとしての意識が消えて対象だけが意識に顕れている
1.48

内面の静澄が生じたならば、そこに真理のみを保有する直観智(Prajna)が発現する

1.49

この智は事象の特殊性を対象とするから、伝承や推理の智とは対象の点で違っている

ヨーガ思想では正しい認識を得る方法として3つの量(pramana)を立てる

1)agama...伝承を根拠とする

2)anumana...推理による

3)pratyaksa,drista...感覚的経験による

1,2は言葉による、間接的、普遍的なもの3だけが直接的で存在の特殊面をとらえる

三昧智は微妙、幽玄、絶対で世俗の経験では把握しきれない

カントは直観を経験的なものと知的なものに分けた

知的直観があるなら、それら積極的な意味での本体を対象とする(?)いった。しかしインドの哲学者は直観を体験していた


サーンキヤでは心には2つの目的がある

ひとつは真我をして現象の世界を経験させること

もう一つは真我をして自己が現象の世界とは元来無関係であることを悟らせること

ね。平和だ…

1.51…無種三昧止滅。

nirodha離欲。vairagya

愛さえ求めなくてもいいのかも

いつもあい、光はそこにあふれてるからね

様々な波動 が心の湖の上に起こって真我の姿を隠す…

そして真我がわからなくなる…

波を通してしか真我を見ることができなくなる…

波が愛情という波なら、我々はその、波に反映した自己を見て、わたしは愛している、という

波がなにかある弱点の波であれば、真我はその波に反映して、私は弱い、と思う…

波を見てるだけでも波は真我じゃないんだよね…

だから波に何が写っていても何も気にしなくていいのだな。自分が弱いと思わなくて良い自分は幻で真我は静かな湖で、光の玉だからな 

 

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