Just Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。

サラスヴァティの語源について調べてみたメモ

響いたところスクラップ

 

1『日本文化とインドの神々 DASH Shobha Rani(大谷大学・仏教学科)
大谷大学同窓会オンライン講演会2020 年 9 月 9 日』

http://www.mujinto-otani.org/info/pdf/20200901/02_rani.pdf

❖仏教が日本に伝えられると、次々にヒンドゥー教の神々をも含むインド文化
の様々な要素が日本に伝来します。仏教に取り入れられたヒンドゥー教の神々
は崇拝の対象となり、日本独自の文化を築き上げます。
❖deva=天 ~天はヒンドゥー教の神々
吉祥天=ラクシュミー女神 (Lakṣmī)
毘沙門天=クベーラ神 (Kubera)
歓喜天ガネーシャ神 (Gaṇeśa)
梵天ブラフマー神 (Brahmā)
帝釈天=インドラ神 (Indra) など

弁才天 / 弁財天
インドの名前:サラスヴァティー(Sarasvatī)
語源 →

saras <√sṛ> (流れる)+ vatī(~を持っている者の女性形)
Sarasvatī=水の流れを持っているもの
ヴェーダ文献の中には美しい立派な河としてその恵みが記されています。

「流れる」とうい特徴から → 川、水、妊娠、出産、弁才、知識、学問、
 音楽、の女神として展開
学問の女神 → 「智慧の流れ」
歌、踊り、音楽の女神 → 「音の流れ」

❖ネパール密教にはサラスヴァティー女神と文殊菩薩は同一視され、スリラン
カの上座部仏教の中にも取り入れられています。

2『ちょっと気になる天文用語』

https://tenkyo.net/kaiho/pdf/2003_03/2003_03_13.pdf

夜の女神Ratri

ケトゥの話面白い。

地獄の神ヤマ→閻魔

 

3『ヴェーダ時代のサラスヴァティー河をめぐって』
後藤 敏文 東北大学大学院文学研究科
山田 智輝 東北大学大学院
永ノ尾 信悟 東京大学大学院情報学環・学際情報学府

https://core.ac.uk/download/pdf/72743706.pdf

カーブルの峠を越えてインド亜大陸に進出した「アーリヤ」系諸部族は、当然、インダス(Sindhu)河川群の上流域を活動領域としたはずである。しかし、後々まで彼らの意識にはサラスヴァティー河がインドにおける彼らの「故郷」であり続ける。
最古の『リグヴェーダ』(前 1200 年頃編集固定を見たと考えられる)においては、本来の活動域は、理念の上、インド進出以前の、急峻な山岳を前に草原が広がる高原地帯に置かれていた。
アフガニスタンを中心に、牛、馬、羊、山羊を遊牧する移動生活に、大麦栽培を伴う定住期をまじえた生活が彼らの舞台に想定されている。現在のアフガニスタン、おそらく、マルギアーナ(アケメネス朝ペルシャの碑文では Marguš, 現在の Merv を中心)、アレイア(同 Haraiva、現在の Herāt を中心)、バクトリア(Baktriš, 現在の Balkh)、さらに、南はアラコースィア(Harauvatiš,現在の Kandahar を中心)、北はオクソス河(Oxus, Amu Daryā)からアラル海にかけての地方(オクソスがアラル海に注ぐ多河地帯がコワレズミー、Xuvarazmiš である)が問題になる。

・リグヴェーダの理念上の舞台は、ゾロアスターが活動した時代と領域とに近接するか重なる

・アラコースィアのイラン名、古ペルシャ語 Harauvatiš(新アヴェスタ語には現地の方言要素を反映する haraxvaitī- が現れる)は、リグヴェーダ以来インドの聖なる川サラスヴァティー Sárasvatīと同じ語に遡り、「湖、池を持つ(川)」の普通名詞から出たものと思われる。

 

・Sarasvatī はリグヴェーダ(R8gveda、以下 RV)に 3 篇の単独の讃歌(VI 61, VII 95 及び 96(註 2))を有し、数ある河川の中でも特別な存在として位置付けられている。Sarasvatī 川は現在既に大部分が涸渇しており、Ghaggar 川、Hakra 川にその痕跡を留めるのみであるが、RV では山岳地帯を流れて海へと注ぐ大河として描かれる。またブラーフマナ諸文献にはその河岸部の遡上を模倣した sattra 祭(祭官だけで行う長期間のソーマ祭。その後で多くの牛が得られるので、一種の作戦行動とも考えられる。祭式に関わる讃歌の制作やその解釈、問答による錬成会のような性格も想像される)の一バリエーション(註 3)が伝承されており、祭式とも深く関連付けられていた。この讃歌は、河川 Sarasvatī の水を湛える往時の姿や、インド・アーリヤ人インド亜大陸西北地方から東方への移動の軌跡、さらにはその過程で遭遇した非アーリヤ系先住民との闘争の様子など、数多くの興味深い情報を記録している。

インダス文明の遺跡群の中央を流れていたと考えられるサラスヴァティー (WIKI)

 西のほうだね。