Just Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。

被害者と加害者のわけきれなさ 福祉と司法が手をつないだら

ついでに挙げようと思っていた記事を。

 

 

刑務所出たてほやほやの方に、お話聞く機会を与えられました。

なんかなー
何がふつうか分からんけど、ふつうのおっちゃんって感じやった。
割と真面目で、ちょっと気弱で、ほんとはさみしい、みたいな。

家族、うまくいかなくて、つながった人間関係が、わるいことしてる集団だったことで、ずるずる。

血縁を重視しすぎるより、自分のアイデンティティとか、弱さとか、関心とかでつながる選択縁が充実することはいいことだと思ってた。自助グループみたいに。
けど、選択縁を築くのにも人と関わる作法は必要なのよね。そのベースはなんやかんや血縁者の影響あるよなぁ。。

おっちゃんが繰り返し言ってたのは、
拘置所の生活はしんどいけん、もうあれには二度といきたくない
っていうのと、
また元のグループに、ふとした瞬間に誘惑されて戻ってしまわんか心配、っていうのやった
ゆりもどされる不安を素直に言える場があるのは、ある意味救われてるのかなとは感じた。

でも、おっちゃんの口から被害者に関することが全然でてこんのがちょっと予想外やった

職員さんいわく、おっちゃんはIQ70ないと思う、つまり、知的障がいが軽度あるか、グレーゾーンあたり。
そんで、自分のこと考えるのが精一杯で、被害者のこと考える余地がないって。

修復的司法、つまり、被害者と加害者の対話によって、起こってしまった衝突、ショック、わだかまりをほぐす在り方、にも、関心がわいているのだけど。
前提がそろわんケースもいっぱいあるんやろうな、と、おっちゃんみてて思ってしまった。

おっちゃんに被害者と直接話したのか聞いてみたけど、全然会ってないし、謝罪文も書ききらんかったみたい。

あまり詳しくないんやけど、日本は知的障がいの認定が厳しい&国としての基準がなくて、都道府県単位?で認定するらしい。
他の先進国だと人口の2~3パーセントが知的障がい認定やけど、日本は0.5パーセント。
認定がなければ公的な補助からももれちゃう
数字忘れてしまったけど、刑務所いる人、けっこう知的障がいが疑われる人多いようです。
そんな感じで、刑務所は最後のセーフティネットの役割も担っている。
刑務所いれば、ごはんあるし、寝る場所あるし、いちおう安全だし、というやつ。
社会保険というネットで予防して、
困った状態なってしまったら公的扶助(生保とか)のネットでひろって、
そこからもこぼれたら刑務所なんかなー
仕事の中で、民事と刑事分けてみてたけど、対象者の陥ってる段階の違いだけかも、と思った。
司法の観点からみたら加害者でも、福祉の観点からみたら被害者なんかなって感じがする。
加害者と被害者も、わけきれないのかもしれない。
日常生活でも、同じ人が傷つけられたり傷つけたりするものね。

犯罪とつながらない、新しい健康的な縁とおっちゃんがつながるといいのですが。それは公助ではなく共助なんやろう。
ポジティブな発想転換で解決策を試行錯誤するソーシャルビジネス(homedoorとかビッグイシューとか)も心強いと思いつつ、
その対象は、マイノリティの中でも選ばれた人で。それは持続的にやるために必要だし重要なことだからいいんだけど。
ただ、ソーシャルビジネスの明るい面をうちだすのを、そこで拾えない部分への関心をそらしたり、共助が強くなることで公助を減らしてOKっていう雰囲気に向かわせたりするのに使われてないか、注意深くみなきゃいけないなーとも思いました。