ジーキル博士とハイド氏…ピュアじゃない自分を受け入れよってことかな。
○スティーヴンスン作
○人間は多面的というテーマ
DAWNの文人主義にも通づるような
○しかしジーキル博士はなんで、
悪性だけをまとめてしまいたいと思ったのだろう?
(ジーキル博士による答えは下に)
ピュアでありたいのかな?
*自分はどうだろう?
汚いとこも含めて自分だと思うけど
それが嫌になるときも、まぁあるか
他人に対しても
好きじゃない部分含めてその人なんだけど、
嫌なとこに注目してしまうと、、
いや、違うな
嫌なとこがあるって認められないと、
かえって全部黒みの強いグレーにして、
全体を好きじゃなくなったみたいに勘違いしてしまうかも。
○ハイド氏が亡くなったときのにおい…
扁桃の強烈な香り
扁桃ってアーモンド、の形に似ている
二次リンパ器官に分類されるリンパ上皮性器官、か。
形が未だ捉えづらい。
(この本のテーマとずれてるけど)
○最後の章で解き明かされていく感が、
なんともいえない。
「本事件に関するヘンリー・ジーキルの完全な陳述書」
ジーキル博士として書かれた記録のメタ認知具合がすごい。
陳述書という法的文書チックな名前でもあり、実験レポートみたいでもあり。
○"前と悪の両面において、ともに私は真剣に生きた"
○"将来いつの日にか、人間が多面的存在であることが明らかにされるのではないだろうか。人間は一個の国家であって、内部には雑多で独立した住民が互いに対立しあっている"
*逆にこの時代は多面的という認識なかったのかな?1886年。明治18年くらいか。
生体的にはまぁ一個だしな。
○"科学的実験をとおしてこれら善悪ニ要素の完全分離の可能性が示唆されるよりはるか以前から、
私はいわば自分のお気に入りの夢として、
そうした奇蹟を空想しては楽しんだ。
善と悪とをそれぞれ別個の個体に宿らせることができれば、
人生から一切の悩みが排除されるだろう"
*そうなのかな?
自分のダークサイドに向き合わなくて良ければ、人から批判される恐怖が無いからか?
○"私は自分の生まれながらの肉体が、実は私の精神を構成している幾つかの力から発せられた精気と光彩に過ぎないことを認識した。"
そういう考え方は今もあるにはあるかも…
○ハイドは濃縮されたゆえ?
十倍にも邪悪な人間…
"今や私は自分の本来の悪に売り渡された奴隷なのである。この発見はワインのごとく私を活気付け喜ばせた。"
*なぜそれが喜ばしいんだろう。。
責任を逃れた気楽さ?
実際多重人格状態の人ってどんな気分なんやろう。
○純粋な悪…善悪の混ざったジーキル博士には手に負えなくなる
私自身が犯したと思えない、とな…
○しかし、だんだんジーキル博士に戻れなくなったり、寝てる間に意に反してハイドになってたり、服薬量増えてきて、
結局ハイドがジーキル博士自身の性格と化して戻れなくなる恐れが発生
*分離できた、悪は自分のせいじゃないって思えてたかもしれないけど、
結局のところ自分の中の多面性と一緒にやっていくしかないんかな。
◎訳者解説より◎
●使徒パウロはロマ書で、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えていると語った
●あるいはこの作品は神の摂理に立入ろうとする人間の無残な最後を描いてその驕りを
戒めたとも考えられよう
●作品全体の背後には快楽を極度に罪悪視するヴィクトリア朝社会に対する息苦しさとそれに対する密やかな告発とがうかがえるのである
*時代背景面白いな。
なんで快楽を罪悪視してたのかなー?
そうしないと天国に行けない、
ということで統治しやすくしてたのかな。
中編小説で一日で読めちゃうので、おすすめ。