ほんとに。。
「多様性を認めない多様性」を、どう包摂するか。私たちが“唯一の正しさ”を手放すとき | 世界のソーシャルグッドなアイデアマガジン | IDEAS FOR GOOD
「多様性」や「対話」という言葉が、これほどまでに空虚に響く時代があっただろうか。
かつてこれらの言葉は、誰もが自分らしくいられる社会を築くための「約束」だったはずだ。しかし今、私たちの目の前にあるのは、多様性を守ろうとする意志が、皮肉にもその価値観を共有できない人々を「不寛容」という枠に押し込め、結果として新たな分断の線を引き直してしまっている光景だ。
ここで一つの問いが浮かび上がる。リベラルの人々を中心に、理想として掲げられてきた価値観は、「自分たちとは異なる正解」を持つ人々を、どこまで包摂できるのだろうか。もし、特定の「正しさ」に合意できる者だけを仲間に加えるのだとしたら、それはその人々が最も避けようとしてきた「排除」の構造を、形を変えて繰り返しているだけではないだろうか。書きだしうまいなぁ。
そして自分もやらかしがちだとおもう。
違うものは違うっていうのは大事だけれど。
真に多様性を認めるということは、自分たちの「正しさ」が否定されるリスクを引き受けることでもある。
それは、自分の理解が常に部分的であり、世界はそれを超えて広がっていると認める「知らないでいる自由」を再獲得することだ。この謙虚さこそが、支配ではない共生の土台となる。
そうなんだよね。
自分正しいと思うことは楽かもしれないけれど時に苦しいのかもしれない
正欲ともつながるテーマだな
ネット戦略を駆使した個人の信任投票へと政治が変質していくなかで、「共通の土俵」が失われつつある。言語化された「正しさ」で相手を裁くリベラルな作法が、こうした多次元的な不安を抱える層に届かないのは、ある意味で必然の結果だ。必要なのは、互いの立脚点が全く異なるという構造的な現実を直視した上で、それでも同じ社会を維持するための「不一致のままの協力関係」をいかにデザインするかという視点だろう。
考えはちがう。と前置きしたうえで話しあうこと。
三項関係で話をきく、考えをつたえる、ということも
手立てになりそう。
すぐに結論を出そうとしないことも。
結論を出さないと進めないのがなんだかな、だけど
別々でやるしかないのか
あああ。まだザワザワしている。やること多い~~
GWいそがしい。
ゆっくりしたいけどいそがしい
あああ!工数考えずに授業つくりたいけど、時間は有限
借りたDVDも見たいけど、時間が~~