https://note.com/wellknowing/n/nf642e78d98e9
人類学コンサル!
エスノグラフィーらぼ
https://ethnography.hus.osaka-u.ac.jp/
ささる!
大学院入学検討時には、以下のように問いのステップを踏んでいくと整理しやすい。特に1と2は研究のモチベーションに直結するため、曖昧なままだと入学後つらくなる可能性もある。関心のある領域の論文や学術書を読んでみて、自分が取り組んでいるイメージを持てるかどうかは大切。
1. 学術的な研究をしたいのか? ←大学院であることの必然性…私いまこれはないかも…
2. どんなテーマを研究したいのか? ←学術的貢献を目指す領域の明確化…中医学は興味あるけど
3. そのテーマについて指導してもらえそうな先生は誰か? ←領域とのフィット
4. その先生が所属する大学院に社会人大学院生として通えそうか? ←実現可能性
そもそもアッサンブラージュを調べてたのよ
https://note.com/wellknowing/n/n0827a059d7b8
引用以下
原語の仏語ではアジャンスマン agencementで、その英訳がアッサンブラージュ/アセンブリッジ assemblageです。(ちなみに、現代アートで用いる場合は、平面的なコラージュに対して、立体的なものをアッサンブラージュと言います。)
へー👀
・前提として、近代のように超越的な原理(神、人間の内面)を措定しないこと。また、物事はそれ自体に意味はなく、他の物事との関係性によってその意味が変わると認識すること(「星座」の前提として述べたことと同様)。
・「アッサンブラージュ」とは、哲学者ドゥルーズとガタリが1970年代に提唱した概念である。アッサンブラージュは異種混淆のフラットな集まりであり、超越的な中心はなく、ばらばらな物事が配置されている。物事は、何かに還元されることなく独立したまま、一緒に機能する(例えば、花・ミツバチ・その自然環境)。それらの配置はランダムに積み上げられたものではなく、総体としてのひとつの「スタイル」を持つ。
・別概念として、哲学者フーコーは、人を主体に構成するモノや言説の編成を指す「装置 dispositif」概念を提唱していた。例えば、“寿司職人とは〜を使い〜のように振る舞う”といったものが配置され、寿司職人の「位置 subject position」が作り出される。そして、ある人がその位置を占めることで寿司職人となる。
・堅牢な「装置」に対してアッサンブラージは常に解体・再構築されていく多様体といえる。それは既存の配置に亀裂を入れ、なんとか自分を表現しようとすることで主体化していくような配置である。このように、既存の秩序を内部から部分的に解体(いわば“小さな逃走”)するときに、独自のスタイルが生まれる。(この逃走の上に生じるものが創造性であり、それは既存の秩序の外にある超越的な位置から新奇のアイデアを持ち込むことではない。)
逃走大事?!😆🌱😆🌱
・これらを踏まえると、「イデオロギーの星座(=既存の秩序)」に自分を写し込み、内部から部分的に解体したうえでなんとか自分を表現することによって、自分が再定義され、新しいスタイルを持つ世界が生み出せるといえる。
自分を解体…
部分的に解体
どうやって解体したらいいんだろう???
読書めも
論文
Super diversity (超多様性)下における障害者と「共生」移民研究と障害学の接点に着目して
読む前にタイトルから勝手に想像していたのは、
障害者、と呼ばれている人の暮らし方生き方を文化としてとらえる
みたいなイメージの論考かな?
ということでした。
"インペアメントと環境の相互作用により紡ぎだす生存戦略によって生成されるものをインペアメント文化と称した"(松岡2018)が気になりました!
具体的にどんな文化がうまれたのか知りたいです。
ろう文化以外にも、いわゆる定型的でないコミュニケーションも文化ではないかな、とふんわり感じていて、その文脈で東田直樹さんや綾屋紗月さんの文章がとても興味深いです。
社会モデルが再考されて例えば具体的にどういうモデルになりうるのでしょうか? 障害者と健常者社会のアッサンブラージュの多様化を前提にした社会モデルとはつまりどんなモデルなんだろう?と思いました
(書いてあったらすみません…うまく読み取れず)
社会モデルはディスアビリティを重視、それはそうだなぁ
社会モデルの普遍性が強調されている
インペアメント自体やそのインペアメントへの多様性に関心を寄せる傾向が弱まった?
ディスアビリティ(社会的障壁)にも多様性がある
社会的障壁のタイプごとの支援や政策立案が広がる
現状の社会モデルは社会的障壁の多様性を鑑みた支援になっていないということ?
いまの社会モデルは社会的障壁を単一のものとしてみている傾向がある?
それはつまり身体、知的、発達の障害からくる壁のみ取り出してみていて、エスニシティやジェンダーを考慮していないということ?
連想されたこと
●ジェンダー関連
トランスジェンダーの友人が描いた自伝で、身体障害のある人から、障害者用のトイレは性別が分かれていないのは、障害者には性別がないと扱われているみたいな感じがする
と言われたというエピソードが載っていました
●外国ルーツと発達障害の重なりについて
診断が過剰になったり過少になったりする危険性の話を聞くことがあります
日本語指導と発達特性に応じた支援が折り重なるところについては少しずつ注目されていると思います(既にご存知かとも思いますが><)
豊田市でその関係の講演があったと思いますYouTube のURL がうまく見つけられず…
以下の3冊も連想されました
https://www.akashi.co.jp/smp/book/b505172.html
https://www.amazon.co.jp/dp/475992471X?ref=ppx_yo2ov_dt_b_fed_asin_title
https://www.kazamashobo.co.jp/books/book_2502/
https://www.bonjinsha.com/goods/detail?id=14365&pt=1
社会障壁ごと、という視点もあるのだと思いますが、いろんな社会障壁が組み合わさって本人にとってなにがしんどいか、それを和らげる調整を考えると、個別対応なのかなという気もしました。個別対応のための手立ての解像度が、社会障壁の多様性の解像度が細かくなることと連動するのかなと感じました。
「多様性の多様化」はたしかに
変数の多さをこのようなことばで説明するのは面白いと思いました
移民と障害で
理論をパラレルにみるということと
両方交差するマイノリティ性にどう対応するがの話が混ざってる…?