マレーシアシンガポール日本の加害のこと、
知らなきゃいけないよな…
少し調べたこと。
マレーシアへの加害
イポーには歩兵第256連隊本部が置かれていました。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2019-12-20/2019122004_05_0.html
英領だったマレー半島は日本軍の占領後、軍政が敷かれ、1943年からシンガポールに置かれたマレー(馬来)軍政監部が半島全体を管轄していました。この軍政監が制定した「慰安施設及旅館営業取締規定」に「稼業婦に対し毎週一回検黴(けんばい)を行うべし」(第21条)という規定があります。梁さんの「1週間か10日ごとに」という証言と符合します。
ほぼ西側なのかな
なぜ華僑だけ?すでに進んでいた日中戦争の中で、マレー、シンガポール各地の華僑らが各地で籌賑会を作り、蒋介石政権を資金・物資の面で支援する動きがみられた。そのため、日本軍司令部クラスで華僑らを潜在的な反日分子とみたばかりか、日本兵らの中にも華僑であるだけで敵と考える者もいたという。
シンガポールでの華僑粛清・虐殺はマレーでの華僑の抗日活動を沈静化させるどころか、華僑の日本軍への不安と不信を惹き起こし、抗日団体に参加する者が激増した。初期こそゲリラ側の武装は貧弱であったものの、1943年半ばを過ぎた頃には英軍の抗日ゲリラへの支援の本格化によりゲリラ側の武装も飛躍的に向上したとされる。しかし、ゲリラ側は寧ろ戻ってくる英軍を警戒、それに備え極力武力を温存することを図っていたという。
英軍は現地領主であるスルタンとの関係を重視していたが、太平洋戦争中、日本軍もスルタンとの関係を重視、また、マレー人を優遇し、下級官吏や警官に採用、統治や華僑弾圧に協力させ、分断統治を図った。😱😱😱
その結果、既に太平洋戦争中に、中国系の多い抗日ゲリラ側によるマレー人の襲撃も起こり、中国系・マレー系相互の集落虐殺も始まっていたとされる。
(イギリスの印パ分離、イスラエルのplo/ハマス分離…内紛させるのはいろんな国がやらかしている…
さらに、日本降伏後、潜伏していた共産主義者華僑を主体とする抗日ゲリラが表に出てくると、彼らは公然と中国系・マレー系を問わず対日協力者の報復・処刑を実施した。その結果、マレー人が殺害されたことに憤激するマレー人による中国人集落の襲撃・殺戮、さらにまたその報復といった形で相次ぐこととなった。その後、現地スルタンらの介入もあり、1946年3月頃には住民間どうしの殺戮争いは沈静化したものの、抗英に転換したゲリラと英軍・その使役するマレー人警官らとの間での虐殺も起こり、独立後は英軍に代わってマレーシア軍との戦いに引き継がれていった。
英国植民地政府と共産系独立派勢力との対立という性質をもともと孕んでいたとはいえ、日本軍が火をつけたともいえるマレー系・中国系の住民対立は戦後長らくマレーシア社会に影を落とし、一般住民の間においてさえ、独立後もそれぞれを代表する民族間でときに死者も出る激しい争いを惹き起こす政治対立として長い間残った。
満州とかとの時系列?
こうした日本軍による華僑虐殺は、共産主義者殲滅を名目に一部では日本降伏後も続いたという。……😭😭
クアラルンプールやジョホールバル等のマレー半島でも華僑に限らず、中国系・インド系を問わず、晒し首事件が起きている
太平洋戦争が始まる4年前から、日本は前例のない大規模な戦争に足を踏み入れていました。それが1937年に始まった中国(当時は中華民国)との「日中戦争」です。きっかけは、夜の北京に響いたナゾの銃声。そこから太平洋戦争につながる大戦争へと拡大し
日本は、日清戦争に勝利したあと、義和団事件をきっかけに、軍を北京周辺に常駐させる権利を得ていたのです。1931年の満州事変後も 、陸軍は華北を勢力圏に組み入れるための工作をつづけ、日中間は緊張状態にありました。
1937年7月7日、支那駐屯軍の部隊が、北京駅から西におよそ20㎞、盧溝橋という歴史ある石橋の周辺で夜間演習を行っている時のことでした。十数発の銃声が鳴り響き、急ぎ点呼を取ったところ、1人の兵士の行方がわからなくなりました。
誰が発砲したのかはわからず、兵士はすぐに発見されました。しかしその後も散発的に銃声がつづき、連隊長は「純然たる敵対行為」と判断、中国軍を攻撃しました。これが、日中開戦のきっかけとなった「盧溝橋事件」です。当初は偶発的な“小競り合い”とも呼べるものだったのです。
勇ましい発言とは裏腹に、近衛首相は戦火の拡大を望んでいませんでした。実は、軍の中枢にも、全面戦争をすべきでないと考える人が多くいました。それでも強硬な姿勢をとり続けたのは、強烈な攻撃を加えれば中国はすぐに屈服するという楽観的な見通しがあったからです。当時の杉山元陸軍大臣は昭和天皇に「一ヶ月位で片付く」と報告していたと言います(近衛文麿『失はれし政治』朝日新聞社『平和への努力』日本電報通信社)。
それまで中国は、満州事変など日本の大陸進出を抑制できませんでした。しかし、盧溝橋事件の前年には、国民党軍を率いる蒋介石が、各地に拠点を築いていた中国共産党への軍事的圧迫をやめ、協力して日本に対抗する「国共合作」に踏み切りました。広大な国土を利用して、日本に攻め込まれれば奥地へ退くという「持久抗戦」を進めていくのです。
さらに蒋介石は、国際社会の支援を得ていきます。国際都市・上海での日本軍の攻勢は、各国の新聞や雑誌で大きく報道され、中国に対する同情が高まっていきました。国際連盟は日本の爆撃に対する非難決議を全会一致で採択、すでに連盟を脱退していた日本は、いっそう孤立を深めていきました。
首都南京を占領
日本軍は4万人を超える戦死傷者を出しながら、11月に上海周辺を制圧しました。しかし、それでも戦いは終わりませんでした。当初、上海への派兵は、現地日本人の保護が目的とされましたが、「敵の戦争意志を挫折」させることに変わり、なし崩し的に当時の首都・南京攻略が決まります。
目的はすり替わる…国際関係も