Just Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。

二十四の瞳 生きているだけで

二十四の瞳

壺井栄


切ないなぁ

それでも生きている

でも理不尽だけど。

友達のエネルギーに対する考えはなんだろう

人間のおろかさ

Brian storm 

I might have been brainstormed 

平和をいのることしかできない?

ちゃんと知らないと、と思う気持ちと、

そういう情報に触れすぎるとつらいことと


壺井さん、他にも色々かいていらつしやるのね

 

農山漁村の名が全部あてはまるような、瀬戸内海べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任してきた。


小さい子どもたちにとって、五年生になるということは、ひとり立ちを意味するほどのことであった。しかし、分教場もたのしかった。

もしもいたずらしたら、猿が遊んでると思っときなさい。🐒

もしもなんかいってなぶったら、烏が鳴いたと思っときなさい🦅


心の中ではじぶんの勤勉さをも、ひそかにほめてやった。(だいじ!!)


法律はこの幼い子どもを学校にかよわせることを義務づけてはいるが、そのために子どもを守る制度はないのだ。😭

セットだよね…ほんとうは。


謄写版の『草の実』は、すぐ火鉢にくべられた。まるで、ペスト菌でもまぶれついているかのように、あわてて焼かれた。

このあたり、破戒とにている…

思想を隠さないといけないのは苦しい


その春(昭和八年)日本が国際連盟を脱退して、世界の仲間はずれになったということにどんな意味があるか、近くの町の学校の先生が牢獄につながれたことと、それがどんなつながりをもっているのか、それらのいっさいのことを知る自由をうばわれ、そのうばわれている事実さえ知らずに、田舎の隅すみずみまでゆきわたった好戦的な空気に包まれて、少年たちは英雄の夢を見ていた。😢


だがよく見ると、目のかがやきの奥に、ただのねえさんでないものがかくれている。


いっさいの人間らしさを犠牲にして人びとは生き、そして死んでいった。おどろきに見はった目はなかなかに閉じられず、閉じればまなじりを流れてやまぬ涙をかくして、何ものかに追いまわされているような毎日だった。しかも人間はそのことにさえいつしかなれてしまって、立ちどまり、ふりかえることを忘れ、心の奥までざらざらに荒らされたのだ。荒れまいとすれば、それは生きることをこばむことにさえなった。そのあわただしさは、戦いの終った今日からまだ明日へもつづいていることを思わせた。戦争はけっして終ったとは思えぬことが多かった。

茨木のり子さんを思い出す。

しっかり悲しむことすらできない

なきみそせんせいはちゃんと悲しむことができているね
それでもまだ戦争が起こってしまっていて。。


ただ、じぶんの家でも父が戦争にゆくということで肩身がひろかったのだ。👀

一家そろっているということが、子どもに肩身のせまい思いをさせるほど、どこの家庭も破壊されていたわけである。

😭


おばあさんの亡くなったときには、村の善法寺ぜさんまでが出征して留守だった。近村の寺の坊さんは、戦死者でいそがしかった。終戦のちょっとまえに帰った善法寺さんは、帰るとすぐ供養くようにきてくれたが、今また、つづけて八津のためにお経きょうをあげてもらうことになるなど、どうして考えられたろう。

今はこのお寺見つからないな…

人のいのちの尊さを、しみじみと味わえる年になってきた。

 お母さんを大事にしてあげるんだぞ――

 お父さんのことばが生きてきた。

 

生きているだけで本当はすごく愛おしいこと

ちゃんと思い出さないとな

その感覚はデリーにもにているね