Just Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。

ヨーガ・スートラ 自分なりに読んでみたメモ

『ヨーガ・スートラ』
ヴィディヤーランカールさん
編訳 中島巌さん
東方出版さん(大阪なのね)


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サーンキヤ哲学からきている
サーンキヤ哲学は、プルシャとプラクリティの二元論を前提👀
プルシャ…意識、気づき、観照者、本来の我々
(アシュタンガヨガマントラの、abahu prusha karam のプルシャだな)
ラクリティ…心(チッタ)を生み出す
プルシャとプラクリティ…一体化を離れ、プルシャが独立して心が静かになるのがサマーディ=ヨガの目的

 

勧戒のなかに苦行が入ってる…
不純物を破壊し、それによって身体と感覚器官に超能力がもたらされる…らしい。

苦行…タパス
自分を苦しめるタパスはバガヴァッド・ギーターでも批判されている
ヨーガでは【苦行とはシンプルであること。】


アーサナの確立は努力がやみ😎、

無限への瞑想によって得られる

 

P22、25

◆チッタ=マナス(マインド)
人間の内的側面、個人化された意識
人間の人生で起きていることは実際にはチッタの中で感じている
知っていることは限られている、地域のことも他者のことも自分の心も身体も
チッタは変化し続ける 

◇チット…宇宙意識

 

◆ヴリッテイ…脳内活動🧠、出来事、過程
パタンジャリによると…
1.正しい認識
2.誤った認識
3.言葉による概念化
4.睡眠
5.記憶
睡眠入ってるんや... 

らんかーるじによると…
feeling、知覚、記憶、思考、想像
これらがごちゃまぜ 
すべての人間は、feelingとそれに続く思考過程の囚われ人に過ぎない

 

チッタ・ヴリッテイ・ニローダハ(頭脳活動のお休み)
理論的に理解することと実践することは別…いやほんと…😭

でも両方必要だよね。


人間は平和と幸福を求めてヨガするけど、

普段の生活をよくするためだけにヨガしようとすると、人生問題は起こり続ける🤣


プルシャ(宇宙意識)と

ラクリティ(自然本性)、

ブッディ(創造的叡智)はどこにあっても同質(??)

ラクリティの戯れに飲み込まれた人間が多い
→物質や楽しみに執着

 

P24
エゴは特定方向へ向かおうとする宇宙意識の傾向


知ったつもりになっていることをいったん置いておく必要があるかも、TTのとき。

 

◆言語
言語は自然発生的過程。行為ではない。

人間に統率できない。
その性質はチッタ・ヴリッテイ全てにもあてはまる。
言語はチッタに起きているチッタ・ヴリッテイのひとつの現れ。
それなら他人の言語と、まじただの流れるものに過ぎないのかも…

 

内的生活において思考はあまり役立たず、

問題を複雑化するだけ🤣


科学では思考役立つが。
科学は定義がハッキリしてる
内的世界では定義が曖昧


幸福とは、平和とは、神とは…
チッタ・ヴリッテイ・ニローダハは、

内的な無言語状態

 

サーンキヤヴェーダンタ、

ヨーガ・スートラなどみてると、

その古典では哲学、心理学、宗教は一緒に扱われている。
それらが人間の心を扱い、よりよくすることを目的としてるから


西洋では哲学、心理学、宗教の間に明確な区分けがある

我々が言語の厳しい成約とそれが心に及ぼす内的凶暴性に気づくと、

自ずから言語を越えようとするようになり、超越的意識の段階に到達する
チッタ・ヴリッテイ・ニローダハ
(脳内活動のお休み、静止)

 

すべての宗教は同じことを教えているというのは間違いとな😅

我々に課せられたポストモダンの任務のひとつは、科学と宗教ならびに諸宗教観の統合をはかること


普遍宗教…ドグマ、聖典、儀式などに依拠せず、神を自らのうちに見出す
(その感覚じたいキリスト教イスラームなどとは相容れなさそうだけど…)

 

心の静止が神の自覚
人間−言語=神 (!)

 

まだ来ていない苦悩は回避すべきである

パタンジャリのヨーガ・スートラは

ヨーガの基礎理解
日常の実際的な活動を含む人生全体を理解するためにはギーターが必要👀

 

ギーター
1.叡智のヨガBuddhi/ Jnana yoga
2.行為のヨガ karma yoga
3.献身のヨガ Bhakti yoga

A man who has merged his individual consciousness with cosmic consciousness through yoga sees himself as living in all creatures and all creatures living in himself. Such a one regards everything and everyone with complete equanimity

 

我々の人生は脳が自分自身について抱くイメージにより支配される

社会は言葉に基づいているので、言葉を使える人間が社会の中で重要な立場に立つと、往々にしてその周囲に多くの混乱を作り出す 

 

眠りは我々が現実世界を捨てたときにはじめて訪れる…
ニードラを睡眠と訳してるのね。

 

◆苦悩の原因
1.無知
2.わたし、という感覚(エゴ?)
3.愛着
4.憎悪
5.生への執着

苦悩要因のレベル…火山みたい
休眠中、微弱、断続的、活発
表層でもがいてると深く潜って本性知ることに届いてない
休眠のときが苦痛を溶かしやすい
だから瞑想するんだねぇ。

 

・愛着は快楽へしがみつくことから来る
・憎悪は苦痛との結びつきからくる
…自分のエゴを傷つけた(と認識してる)ひととか。…しかし本当は自分も相手を傷つけている、というのはヨーガ的にはどうとらえるんやろ、


過去が自分の現在の思考に影響を与える過程に気づかせて、現在の生活への過去の呪縛を弱めることは可能 

過去を捨てる…
それは過去に蓋をするのとは違うんやろなぁ

 

人生は苦しみ…
欲望が叶ったら失うし、かなわないと不満だし、
好きなとこを好きなだけして回復しよう、

という考えもあるけど
叶ったことをじんわり味わったり、叶わなければ、また別なものがもたらされると思ったりするのは幸福、安心感な気もするが🤔

 

カルマの話たびたび出てくる。


エゴ、心、感覚器官を含め、この世の一切はプラクリティの3つのグナからつくられている 
サットヴァ・グナ 光明と幸福
ラジャス 不安と活動と苦難
タマス 遅鈍、愚味
大抵の人間はラジャス
みんな不安なのか〜ある程度?
グナはコントロールできない…

内的世界は孤独…そう感じる人もいるのねぇ。

 

Ishvara pranishanad va
ईश्वर प्रणिधानाद वा।
(心の働きの静止は)神への祈念によっても達成できる   
人間の知性とそれを通じて獲得できる知識の限界…おまかせ😇

思考も人間の精髄ではない
真髄は人間の内部にある意識…
神は我々の中にいる


グルへの盲従は弟子にとって破滅的
究極のぐるは神さま

 

O喉の一番奥で振動
M唇で振動が止まる
はじまりからおわり
意味はない。意味はないのだ〜

 

好ましいものへの瞑想もありなんや

苦行は自己統御力をつけてくれます><
苦行していいじゃん、と先生

苦行(タパス)、シンプルであること

自らを苦しめる苦行は推奨されない、

逆説的…

タパスっておいしそう。笑

 


疑惑に襲われたら、その逆を考えてみることである…

暴力的人間は危険がないところで

危険を見てしまう

(あるある、先取り不安

それはヴァイオレンスなのか…)

 

 

行動の果実に興味を持たない
ヨーガの技を自在に使えるので

現実化できないことを言ったり計画したりしない…

 

盗まないことの確立
全世界が家族、全世界の富が自分のものとして眺められる

ブラフマチャリヤ
性的節制は狭義
本来はブラフマンの中で生活する

ヨガの修行は新しいものの獲得は目指していない
不純物をひたすら取り除く
混乱抗争に満ちた外的生活への関心がなくなる

 

欲望を満たそうとしてはならない、という訳ではない。

欲望は自然(そうなんや!やさしいな!)
しかし、外側にある幸福の源泉は、

常に自分の内側に緊張や不安を作り出す…paradoxical だけどほんとにそうやな…
手に入らなかったらどうしよう、ってねSantosh 足るを知る

 

77 アーサナは瞑想の補助!
Sthira sukham asanam
स्थिर सुखम आसनम
アーサナは安定し快適であるべき
そうしたアーサナは努力を緩め無限なるものを瞑想することで達成される😇

宇宙だわ〜

いかに頑張ったか、意識的に意志を働かせたかとかは、スポーツなどにはいいがアーサナ的には違うッ
肉体の中に潜むちから、肉体の知性に委ねる

エゴを満足させるために、特定のアーサナをしすぎるような過ちを冒してはなりません…やりがち…😅

 

無限を瞑想して努力を緩めてアーサナすると、両極の猛攻にさらされなくなる
人生の浮沈を正しい精神でうけいれるようになる
内的平衡の発達

→現世の外的な力は人をあまり悩ませなくなる

 

第4のプラーナヤーマ(調息)がある…
個人を通じて宇宙が呼吸する。

呼吸が知性を用いる

プラーナヤーマを通じて

頭脳の不純物を取り除く
酸素を届ける?

 

一つのことに集中してたら心は平和、

緊張しない、

しかし人間は飽きて別の気晴らしを探してしまう。

そして未完を後悔する
我々の一生は未完の仕事と

それに由来する挫折感と葛藤の連なる物語になる…あるある…

 

プラティヤハーラとは、
感覚器官がその対象に結びつくことをなくすことで、個人意識それ自体が働くような形をとること

 

87
苦行の伝統的な定義は、両極の忍耐…devandva sahanam tapah
苦痛と快楽のような両極が肉体と心に影響しないように統率力を働かせること

=ヨガで言う苦行

つまり、バランスを取るってことかな

思ったよりくるしくなさそう!💓

 

海原のひとつの波にとって、自らのアイデンティティを知る唯一の道は、自分を海原に合一させること
個人意識を宇宙意識と合一させる

梵我一如なかんじだな

 

クリヤーヨガ、実践のヨーガ
苦行、自己学習、神への祈念からなる
→三昧へ

 

ダーラナー(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディの実践を通して、
何らの努力を伴わず(!)ある内的意識に到達する

(仕事で)緊張するのは、自分のしていることに集中してないから……
🤣


ダーラナーが達成されると、

我々の一切の仕事は円滑に効果的にすすむ

 

ダーラナー(集中)を行うには…
心和ませるようなもの
お花、ろうそくの炎、美しい風景、

シュリチャクラなどの図形などを力まずに眺める


目を閉じても残像
海はそうかもなぁ
そうすると集中が自然にできてくる


最初は注意がそれて、また戻るということがおこる
力まなくても持続的に瞑想に没頭できたらそれがディヤーナ
瞑想してるという意識はある

瞑想してるという意識すらなくなったらサマーディ

ダーラナー、ディヤーナ、サマーディ

を合わせて、サンヤマと呼ぶ

 

◆サンプラジャータサマーディ
認識のあるサマーディ
論理的思考→継続的思考→喜悦→"わたし"という感覚
深い集中状態のアーティスト、学者はヨーガ者の状態にしばしば例えられる…心が静かなので😌

 

◆アサンプラジャータサマーディ
想念が消えて微細な印象だけが残る
自らの個別的存在を実感しない
日常では個別的生活をおくるとき、

個別的存在を活用もする
瞑想状態にも出入り自由


信仰、精神力、想起、深い瞑想、英知の覚醒

リンガ…標識

 

有種子のサマーディ
体験のタネ

思考を超えた三昧から生じた潜在印象(サムスカーラ)は、他の一切の潜在印象の発生を阻止する
だから瞑想貯金なのかも

 

ひとはこの世のありとあらゆる活動を通して様々な経験を重ね、

十分に泣いたり笑ったりしたので、

もうこの世には心残りはないという時点で、初めて、

特定の役割を果たしつつ参加してきた現世という舞台から退出したいと思うようになります…

修養を続ければグナの遊戯から離脱。

ひとは純粋意識状態になる

 

あとがき
ヨーガは密教とともに平安時代にやってきた
密教者が瑜伽者と名乗る伝統も。

バガヴァッド・ギーターも並行してよむべしとな!

 

ギータ気になってきた。