即非京都…循環と転回
無意味だと思っていたものが繋がり直す、
というステートメントがとても印象的だった。
大量に写真をとり続けても何も生まれない苦悶…
The more beautiful a picture looked, the more empty it felt...
停滞を感じている日々は、
なかなかにbipolarみたいで苦しいこともあるけれど。
違和感も、それは違うとわかる/確認できることに意味があるかもしれないし、
かのじょたちのように、再統合されるのかもしれない。
京都盆地の地下には京都水盆がある、と、あるとき記事を読んだとか。
そこから天地が逆転するような意識の変換。
同じ景色を見ていてもくるりと。
転回。
地下水と水循環
気づいたら調和を持ってたち現れる
作家がつくりあげたというよりそこにあって、ただ、長い道のりを経て帰ってきた。
絶えずうつろう鴨川
再生
2017も鴨川をただ眺めていたんだよね
いつ回復するのか分からない、
ぐるぐる不安の中で
少しずつ少しずつ要らない皮が剥がれて流れていく
あの時より、若くないとも言えるけど、
あの時より、人に頼ることをおぼえている
固定観念を壊して写真表現の本質を見直すための試み
こわして!
本質を、みなおす
新しい観点や視点、世界認識
非限定的な世界
投影された写真は、大きなスクリーンだけでなく、空間をあけて何層にもなった30-50センチくらいかな、の、布にも映し出され。
横にいくつも通された糸もきらりと光り。
重層的で幻想的な世界。
Jifei Kyoto, which " is/not photography" is a process and inescapable future
即非…
"通常の論理は分別知の論理であるのに対して、即非の論理は分別以前の論理、あるいは無分別の論理だとした。分別の論理が、対象を文字通り分節化するのに対して、この即非の論理は分節化以前の直接的な経験を大事にする。大拙はそれを、主客未分の状態だと形容した。この考え方は、西田の直接経験に通じるところがある。"
https://philosophy.hix05.com/Japanese/daisetsu/daisetsu06.html
分類やラベル付けできない直接的な経験…