瀬戸内寂聴さん
『ひとりでも生きられる』
1978年、集英社より。
タイトルに惹かれてしまったさ。
一人かもって思ったときに、勇気づけられる本。
ひとりでも生きられる (集英社文庫)
気になったところ、ぽつぽつ引用。
五十年を生きてしまった私の愛への確信は、人は別れるために出会うという一語につきる。
それは人が死ぬために生まれてきたのと同じ冷酷さで人間の運命に課せられた劫罰であると同時に恩寵でもあるように私には思われてきた。
もし、永遠に滅びない生命であったら、それはなんとう苦しいことだろうか。
もし、永遠に衰えない恋があったら、それは何という刑罰であろうか。
衰えることわりに支えられているからこそ、刻々の愛がきらめくのである。私は少なくともこれまでの生涯、自分の情熱だけはいつわらず正直に生きてきたといえる。それが正しかったのかどうかは私は知らない。こういうふうにしか生きられない人間だったからこの道を選んだのだとしかいいようがない。
ほんとそう!
私は私のようにしか生きられない。
人間は人間を決して救うことはできないし、ゆるすこともできない。けれども人間は人間を思いやることはできる。他人の悲しみを悲しみ、他人の喜びを喜ぶことはできる。その心の広がりがもたらされるのは、真剣な恋と思い悩んだ心の闇の涯にほの見えてくる光明の中からである。
多く傷つくことは、多く愛した証である。
私の現実は、人の生肝をたべても「露命をつながねばならぬ」の線から一向に向上せず、とても「成長したい」という高尚な願望までとどかない情けない有様であった。
とてもわかる気がする。
マズローのいうように、生存、安心が満たされての自己実現欲求。
生きるということは、明日への、いや今日の午後への、いや、やがてくる一時間後への期待と願望と不安のないまじった鎖をたぐりよせていくことではないだろうか。
出逢いの出逢いたるゆえんは、そういう慎重な要心にも関わらず、やはり、雨や嵐のように不可抗力的におそいかかることにあるのだ。
その人は、ご主人と暮らしながら、心はまだご主人とつながっていて、離婚はしていない。それでいて彼女にはご主人以上に愛し愛されている恋人が別にいる。
私は彼女を見ていてちっとも不潔感を感じない。彼女は好色なのではなくて、ヒューマニティの幅が広いのではないかと思うのだ。人間が生きるということの意味を、私はいつ頃からか、自分の中に眠っている才能の可能性を引き出し、極限に押し広げることだと解釈している。
私はらいてうさんの書かれたものの中では、「青踏」に書いた「独立するについて両親へ」
という題で彼女の父母に出した公開状を一番素晴らしいものと思っている。
これは、らいてうさんが、年下の恋人奥村博史氏と同棲にふみきった時、両親の家を出るにあたって、両親へ出した手紙体の文章であった。これを両親に私信として置いては来ず、「青踏」に発表したという点に、らいてうさんが自分の恋愛を社会的なものとして、女性解放の一つの実践のモデルケースとして扱っていたという意志が見られる。
いまだと、敢えて法律婚しないとか、
パートナーシップ条例をつかうとか、
それを広く発信するケースが、
ある種の社会化、かなぁ、
エネルギーのいることだと思う。
しれっとやるのはいいなと思うが、
どとーんとやって、批判を真に受けたりするのは、力がたくさん要りそう。
つづかないかもしれないから、つづいている今が美しいのだ。
結婚制度に疑問を持ち、入籍の意味を求めず、男に頼らず生きようとする女が出てきた以上、未婚の母はこれからも益々ふえていくだろう、
と1978年に寂聴さんは書いたけど、
婚姻制度の圧力やそれに対する意識のなさはあんまり変わってない気もする。
プライドパレードで、婚姻制度は息苦しい、というプラカード出している人がいた。
慣習的にではなく、婚姻制度の背景、メリット、デメリットも見た上で、戦略として結婚するならいいと思うけど、
なんて話をした。
私は背景を理解しきれてるだろうか?
ひとりでも生きられる、と寂聴さんはタイトルにまでしてるけど、
私はひとりでも生きられるほど強くないんじゃないか。
婚姻制度に乗っかるってある意味セーフティネットだ。
ならばもっと人数多いチームにしてもいいのに、とも思うが。
独占欲が生まれないこともないしなー
処女性への迷信から女が完全に開放されたときには、結婚の形態も否応なく変わらざるを得ないと思う。
レオン・ブルムは恋愛と結婚の相手をはっきり区別したほうがいいという説をたてている。
レオン・ブルムは「結婚について」の中でこうもいっている。
「二十代の時に子供を持てば、女の身体は変わってしまう。三十歳ではそのまま保持される。そして四十歳でなら子供を持つと若返る」
ほほう。まぁ、授かるかどうかも神さまのことだし、いつ授かるかもその人にベストのタイミングが計られていると思いますが。
女は自分の選んだときに子供をつくればいいので、母親になる前に本能を最も激しく、或いは最も強く消費し尽くす自由を行使すべきだと説いている。感覚的に好ましい男でも頼りにならない男は多いし、頼もしい男でも感覚的にまったく肌の合わない男もいるのだ。これは男の側からもいえることで、こういう二人がいっしょに暮らしたら、お互いが悲劇である。
人間は全知全能ではないのだから、思い違いや早とちりや、とんでもない誤解をしょっちゅうする。もし、二人の男女がお互い、そういう過ちをおかしてしまって、一緒に暮らしてみたとき、予期しなかった不都合に逢えば、勇敢に何度でもやり直せばいい。
勇敢に、かぁ!
シングルもダブルも孤独。孤独の質が違うだけ。
孤独に徹した後にも生じるやさしさこそ、人間だけに持つことの許された覚めたやさしさである。それは情熱だけに流される肉感性から生まれるあのむせかえるようなおしつけがましい利己的なやさしさではなく、相手の孤独を汲みとるゆとりのあるやさしさである。永遠に残るものは、肉ではなく、精神の遺産だけなのである。
「愛とは後悔しないこと」(E・シーガル)
結局どんな形でもいいのでしょう。
社会的にやりやすい形と、寂聴さんの選んだような、そうじゃない形はあるけど。
熱くて、どんどん読み進められる感じ。
寝付けない夏の夜のお供にどうぞ。