Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。 フィリピンのダグダガイという竹の棒とココナッツオイルを使うフットセラピーが大好きでマニラまで習いにゆき、ひっそり身近なひとに好評です:)要らないものがごっそり削ぎ落とされ、ぐぐっと押しポイントに届く感じがたまりません^^

外国にルーツを持つ子どもたちの声を発信するお祭り~ 安心しているから発信できる。でも、葛藤も。

外国籍やダブルなど、 外国にルーツのある生徒たちが学校の枠を越えてつながり、 支え合う「輪」を作るための交流会
に参加させてもらった。
チャンゴの演奏、歌、弾き語り、スピーチ、劇、ダンス、 ビデオ上映、リレートーク、模擬店などなど。


それぞれ、発表の最初に少し、 自分自身のバックグラウンドについて紹介されていた。
どこで生まれ、どれくらい日本に滞在していて、
何を感じてきたのか。


作品の中や自己紹介で傷ついた経験が話されることもあった。
それはすごく心が痛むけれど、同時に美しいものでもあった。


自分も気付かないうちに誰かを傷つけてしまっていることが十分に ありうると思うと、
人と接するとき(特に、外国にも日本にも両方ルーツがある人) にどうすればいいのか、
すごく怖くなる。


色んなセクシュアリティの人と話すのは、 失敗したこともあるけれど、
基本的には穏やかで嬉しい気持ちなのに。


「言わないと分からない」
それも本当だと思うけれど、
言えるためには、安心や信頼が前提になる。
それをつくることができているのか?
気持ちをこちらから適切に表出し、 相手の気持ちを出してもらえているのか?
もちろん、それをつくるのも、片方だけじゃなくて、 相互作用だけど。


ずーっと人間に興味があるけれど、
人と関わること、というか、 人から嫌われたり批判されたりする可能性への恐れは、
減っているつもりでゼロになっていないのかな、と沁み、 チクリとし、
時に身体や呼吸をこわばらせる。


鈍感でいるより、ましなのかな。


たとえばこんな、たしかパキスタンルーツの方のエピソード。
日本人の友達から「7年も母国に帰ってないの? そろそろ国に帰れよ」と言われた。
→本人に悪気はないと思い、何も言い返さなかった。


何が問題か、思い当たるでしょうか? どんな可能性があるんでしょう?
・ 日本人の友達は一時帰国のことを指して行ったかもしれないけど、 本人は長期に渡って帰ることを想像したかも
・日本人友達は、パキスタンに帰るのは簡単だと思っているかも
・いろんな事情があって帰国できないのかもしれないけれど、 日本人の友だちは分かってないんだな、と思い、本人は傷つくかも


悪気がない、というのも、なんだか怖いことで
悪気がなかったら差別してもいいのか?
というか差別する意図がないのに差別されたと相手が感じる時どう すればいいのか?
差別されたと感じた側にも、過去の傷つきの蓄積があって、 言われた言葉をネガティブに受け止める内面化されたフィルターが あるのだろうか?


ぐるぐる。ぐるぐる。
すっきりしたいけれど、葛藤を保持するしかないのかもしれない。