Just Living Diversity

マニラでのソーシャルワークとの出会い記録から、日本のソーシャルワーク×多文化/法的支援、インドで暮らし、働き、旅するカラフルさ、インド&野草ごはん、身体を解すこと、レジリエンス/回復についての試行錯誤を記録したく。 私もあなたも、ゆるく受けいれて生きていけるといいなと祈りながら。

どうして生きているの?と思ったら


なんのために生きているんだろう?
10歳に満たない頃も、10代の頃も、今も時々、ふと浮かぶ問い。

寂しいとき、自分の生には意味がないんじゃないか、という虚しい気分のときに浮かぶ問い。

孤独もじんわり、ロックの梅酒のように味わえば愉しいのだけど、
そうはいかないときもある。

 

ある、愛情あふれる、小学校の日本語のおばちゃん先生が、
外国つながりの子どもたちのために、レジリエンスを育てる授業をつくりたいの!
と言いながら、紹介してくださった詩に、
わたしも励まされた。

吉野弘の「生命は」


生命は

自分自身だけでは完結できないように

つくられているらしい

花も

めしべとおしべが揃っているだけでは

不充分で

虫や風が訪れて

めしべとおしべを仲立ちする

生命は

その中に欠如を抱き

それを他者から満たしてもらうのだ

世界は多分

他者との総和

しかし

互いに

欠如を満たすなどとは

知りもせず

知らされもせず

ばらまかれている者同士

無関心でいられる間柄

ときに

うとましく思うことさえも許されている間柄

そのように

世界がゆるやかに構成されているのは

なぜ?

 

花が咲いている

すぐ近くまで

虻の姿をした他者が

光をまとって飛んできている

 

私も あるとき

誰かのための虻だったろう

 

あなたも あるとき

私のための風だったかもしれない

 


たぶん、昔も読んだことあったのだ。
懐かしい気持ちになると同時に、
新しい気持ちも湧いたような。

ひとりで生きられるほど強くない、
と思うけど、
人間という生き物はそもそもそういうもんなんだな。
不完全という完全さをもって。
世界って、ゆるやかだったのね。
だから、私もきっとゆるやかだ。
おしべなのか、めしべなのか、風なのか、虻なのか、わからないけど、
居ていいのだろう。
かみさまがそのように世界をつくったのだろう。
うとましく思うことさえも許されている、かぁ。
人の愚かさを神は、見守っているのだろうか。
(ちなみに特定の神様は信じてないのだけど)
うつくしい花でさえ、欠けているのだから、
人間なんて、もっと欠けてても、ゆるくそれを受け入れて、ぜんぜん大丈夫なのかもしれん。
やわらかく生きられますように。